徳島県名東郡佐那河内村虎屋 壷中庵(とらや こちゅうあん) 岩本光治
徳島市内から南東に車で30分。四国山地の入口に「虎屋 壷中庵」はある。1日数組限定、完全予約制ながら、全国から料理人や食通が訪れるという日本料理店だ。
地の魚と野菜を使って、その食材が持つ魅力の深さに気づかせてくれる日本料理を作る。店主の岩本光治さんはどのようにして壺中庵の料理を作るに至ったのか、前編ではこれまで経てきた道筋を聞いた。
嵐山吉兆で知った「料理」のいろは
ここは、もとは「虎屋旅館」というお店やったんです。仕出しも旅館も飲み屋もする、田舎の雑貨屋みたいな食べ物屋でした。僕はここの三代目です。
地元で、食物科のある高校に入りまして、そこからの就職ルートは「吉兆」「なだ万」「つるや」「帝国ホテル」などがありました。先生が頑張って開拓してくれたんですね。あとは田舎の子が使いやすかったという先方の都合もあったかと思います。
特にこの旅館を継ぐという考えもなしに、吉兆に就職しました。本店かと思っていたんですが、入店した日に「お前とお前はこっち」とバンに乗せられてね。着いたところが嵐山でした。着いたら目の前に川がある。こりゃ好きな釣りができるぞと、実家から早速、竿を送ってもらいました。やがて船頭さんとも仲良くなって、長閑な時代ですね。
嵐山吉兆では、基本的な料理の考え方を教えてもらいました。最初でよう覚えているのは筍。3月20日に入店して、すぐの献立でした。>
鰹で炊いた筍を大鉢に入れ、木の芽をたっぷり散らします。
それまで本を見ていたときは、木の芽は完全にお飾りでした。でも吉兆のこの「筍」で、木の芽は筍を引き立たせるための香りや辛みを足すものであること、置くことに意味があることに気づかせてくれました。包丁の切り方にしても、飾り包丁は「技を見せる」ものではなくて、食べやすくするための理にかなったものであることも知りました。
嵐山吉兆には5年ちょっとおりました。調理場は少ない時で6、7人でしてね、僕は2年目から焼き場に立たせてもらいました。
刺身用の魚が、明石から大阪の本店に毎日届くんです。それを毎日、僕らはカンカンを担いで取りに行く。阪急電車のものすごいラッシュ時に運んでいましたから、同乗した人はかなわんかったでしょう(笑)。あとは市場で買ったり、キュウリなどの野菜は近所の農家にもらいに行っとったね。
当時の嵐山吉兆のご主人は徳岡孝二さん。(創設者の)湯木貞一さんのことは「大ご主人」と呼んでいました。大ご主人は月に一度嵐山にいらっしゃって、料理を食べて泊まって行かれる。そうすると僕ら修業をしている者が、お風呂の「あかすり当番」をするんです。大ご主人が寝るときには、色々な話を伺いながら、眠るまで按摩をする。いま振り返るといい経験でした。料理そのものはもちろん、演出の仕方も人間性も勉強になりました。
僕は漬物と焼き場におりましたが、大ご主人に怒られたことは一度きり。「何で今頃、沢庵切っとんのや」って(笑)。ぬか漬けの味も、鮎の塩ふりも怒られたことはありませんでした。
献立を考えて構成する。その日、最も良いものを出すためには労をいとわないということも学びました。当時の献立は、いま思い返してもなかなかに刺激的です。
その献立が、調理していくうちに、どんどん変わっていくんです。下っ端で働いていた頃は「最初に言った通りにやってくれればいいのに」と文句を言っておりましたけれど、自分で初めてみると、まあ、そうなるわなあとわかりますね。
理想の料理を提供する「壺中」を求めて
京都で「ばんざい」を色々食べていくうち、汁の味やったりとか、薄味というものに慣れていきました。ここで料理人として働き続けるのもええなあと思って、親もそれでいいと言ってはいたんですが、奥さんが女中さんとして吉兆に入ってきて。それでまあ、結婚せないかんようになりまして(笑)。もう少しおりたい気持ちもありましたが、辞めて結婚して、家に戻ってきました。
最初はこのあたりの仕出し料理と、その合い間に好きな釣りばっかりしていたわけですが、ある時に徳島市内の道具屋さんから「いっぺん食べさせてよ」と言われて、吉兆でしていたような料理を作ったわけです。それをきっかけに、口コミで広がってくるようになったんですわ。
それで昭和60年に、旅館を建て直して「虎屋 壺中庵」を作りました。庭の大まかな設計も自分でやりました。僕はともかく、山とか川が好きだから、山の情景を表現したいなと思ってね。
「壷中庵」という名は「壷中日月長(こちゅう、にちげつながし)」という中国の故事が由来です。別天地があるということやね。うちみたいに、何にもない田舎ではあるけれど、この門を入ってくるとそこに別天地がある、と。小さいけれど奥は深いよと、って、いうようになったらいいなと思ってつけたわけです。
重ねない「だし」が、食材の個性を引き立てる
「壷中庵」ができた当初は、吉兆の二番煎じのような料理を出していましたね。やっぱり、自分のおった店と同じようなことがしたかった。見よう見まねで、やってないことも「あないしとったなあ」と思い出したりしてね。
当時自分が作っていた料理は、演出も華美で、いかにも豪華そうなものでした。甘みもあって、万人がおいしいというような味付けで。それで来てくれはったお客さんもいたんやけれど、だんだん料理が変わって、シンプルな味になっていった。