ピックアップシェフ

小河 雅司 元赤坂ながずみ 放浪の末に見つけた料理人の仕事。これからもずっと旅を続ける人生でありたい。

料理上手な母が作ってくれるおかずの中で、ダントツに好きだった万能肉野菜ディップ。

好奇心の強い子供だった。疑問がわいたら、納得できるまで徹底的に答えを探すタイプ。

僕は福岡の中心地、福岡市の住宅街、長住というところで生まれ育ちました。店の名前『ながずみ』も、このふるさとの地名をいただきました。父の祖父母と両親、ひとつ違いの兄、僕、妹という7人家族で住んでいました。父は根っからの九州男児そのもので、とても厳格な人でした。毎晩、父の帰宅時には、玄関で兄妹3人正座をして迎え、お給料の明細を母に渡すときもその様な恰好で感謝を表現するような、昭和の終わりごろとはいえ、だいぶ古風な家庭だったように思います。母はとても料理上手な人でした。そんなに裕福な家庭ではなかったので、外食するのは3か月に1回程度。ぼくら兄妹がハンバーグを食べたいというと、お店で食べられるそれとはちょっと違う、そのようなモノ、を作ってくれるんです。そんな毎日(笑)。それでも母の作る料理はいつもおいしかったですね。

好奇心の強い子供だった。疑問がわいたら、納得できるまで徹底的に答えを探すタイプ。

3人兄妹の真ん中だった僕は、好奇心が強くて腕白な子供だったと思います。あるとき、コンセントから火をおこせると知り、学校のコンセントにヘアピンを差し込んで発火させ、紙に火をつけて遊んでいたのが先生に見つかり、母が小学校に呼び出されたこともありました(笑)。しかも3回も。子供のころから、これはどうなるんだろうと気になると実際に試したり、実験するのが大好きな子供でした。そのせいか中学ぐらいから科学や物理、数学が得意科目になり、公式を使わないで時間をかけて数学の問題を解いていくのが楽しかったですね。成績は良かったですよ、中学まではね(笑)。さほど勉強もしないで、希望の進学校に上位の成績で合格し、大学に進んで学校の先生になろうという希望も抱いていました。しかし高校2年の終わりまで、全く勉強をしないで遊んでばかりいたので、成績は後ろから3番目ぐらいになってしまいました。僕の高校は繁華街の天神にいちばん近かったので、遊びの誘惑が多かったんですよ。高校3年になったとき、さすがにこのままダラダラと遊んでばかりではカッコ悪いと思い、遊び友達と縁を切って、勉強ができる友人たちと付き合うようにして、必死で受験勉強を始めました。両親は僕が先生になりたがっているのを知っていましたから、その期待に応えたいという気持ちも強かったんです。そして真剣に勉強してみたら、どんどん成績が良くなっていくから楽しくなっちゃって。いかに底辺にいたかってことですが、いよいよ受験が始まり、東京の大学もいくつか受けましたけど、結局、希望の大学には入れず、自宅から通える地元の大学の数学科に入学することになりました。

大学をやめて、本当にやりたい仕事を見つける旅へ。たどり着いたのは沖縄だった。

大学の数学科というところは、問題を解いていくという僕が好きな勉強ではなく、「ゼロとは何か」とか「1とは何か」という証明ばかり。急激に興味を失っていきました。そうなるとまた典型的な遊び人大学生になってしまいました。今日はクラブでDJ、明日はパーティという遊びの日々。このまま大学生活を続けていてたいして社会を知らぬまま、自分は本当に先生になって良いのかと、2年生になったころから真剣に悩み始めました。そのとき僕が出した答えは、大学はいつでも入れる、それより自分が本当にやりたいものを探しに行きたい、と。たぶんその気持ちの裏側には、父への反発もあったと思います。子供の頃から父は事あるごとに「お前たちのために働いているんだ」と言い、僕には耳が痛い話でした。そんなことを言う父親になりたくない、僕は自分が好きな仕事を見つけよう、そうすれば家族にそんなことは言わないだろう、と考えていたんです。今は逆に、そんな中でも僕らを育ててくれた父を尊敬してますが・・・。でもさすがに大学を辞めたいと伝えると母は泣いていました。2年生の分の学費は払うから、いつでも戻っていいんだよ、と言ってくれて。ありがたい言葉でした。

大学をやめて、本当にやりたい仕事を見つける旅へ。たどり着いたのは沖縄だった。

そして僕は旅に出ました、というとカッコつけてるようですけど(笑)、本当なんです。言い換えれば計画性がなかったってことでしょうが。アルバイトで貯めた全財産30万円を持ち、青春18きっぷを買い、福岡から鈍行列車に乗って、行くあてもなく、気になった町で降りて、しばらくフラフラ各地を転々としながら、北上していきました。地方に散らばっている友人の家に泊めてもらうこともありましたが、ほとんどは野宿。駅の中やシャッターが降りたデパートの前で、ホームレスの方と並んで寝たことも何度もあります。ときどき屋台の飲み屋に行って、地元のおっちゃんと意気投合して、ご飯とお酒をおごってもらったり、楽しいことはいろいろあったけど、幸運なことに、怖い目に遭ったことはなかったですね。
6月に福岡を出て、9月半ばには北海道までたどり着いちゃって。そしたら、もう寒いんですよね、秋の北海道は。その夜も野宿して、あまりに寒いので夜中に目を覚ましたら、隣にいたはずのホームレスの方々が消えているんです。どこか暖かい場所に移ったみたいで、でも、僕のことは誘ってくれないんですよね(笑)。とにかく温まろうと、サウナに入ってテレビの天気予報を見ていたら「沖縄は27度」と言っているわけ。そのとき、残り少ないお金で宿に泊まるより、暖かいところで野宿したいと思ったんです(笑)。気づいたら飛行機に乗っていました。

1年の放浪の末、故郷に戻ったとき、料理人としての将来が見えてきた。

飛行機のチケット代でいよいよお金も少なくなり、ついに僕は沖縄で仕事を探すことにしました。ちょうど『万座ビーチホテル』が求人を出していたので、すぐに行ったら、もう決まったと聞いてがっかり。懲りずに翌日また行ったら、ちょうど通りかかった和食部門の料理長さんが「うちに来ていいよ」と声をかけて下さり、包丁を持ったことすらない僕が、ホテルの厨房で働かせてもらうことになりました。全くの未経験者なので、他の料理人さんがネギをまとめて5本切るところ、僕は1本だけをゆっくりと切るような仕事ぶりです。その代わり掃除とか洗いものとか、できる仕事は一生懸命に頑張りました。そうするうちに、料理の仕事がどんどん面白くなっていったんです。何が楽しいかって、全てが知らないことばかりで歴史も深く、食材が四季を通して変わっていくことも興味深かったし、体育会っぽい人間関係も嫌いじゃないし。料理人の方々は京都や東京の料理屋さんで修行をし、沖縄に戻った方も多かったので、その経験などいろんな話も聞けました。『万座ビーチホテル』には1年弱お世話になり、僕はとりあえず故郷・福岡に戻りました。そのときの心境は、料理の仕事が楽しく続けられたように、今ならまた勉強も楽しくできるのでは?という期待です。そして再び大学に入ろうと受験勉強を始めてみたのですが、実家で勉強しながら、家族のごはんを作っているうちに、参考書を開いて勉強を始めても、すぐに頭の中は「今夜のおかずは何にしようかな」と考えているわけ(笑)。そうするうちに自分は大学に進むより、料理を仕事にしたほうがいいのでは、と自分がやるべきことに、ついに到達した感じがしました。僕がその中でもいちばん食べ続けたい、作り続けたいと思ったのが和食だったんです。和食の料理人になって、一社会人として認められたい、そういう気持ちが大きく膨らんでいました。再び両親に「大学ではなく、料理人になりたい」と打ち明けたら、父は反対していましたが、母は「好きな仕事を見つけたなら、頑張ってやりなさい」と応援してくれました。その言葉に背中を押され、僕は東京に出て和食の修行をすることを決意しました。

1年の放浪の末、故郷に戻ったとき、料理人としての将来が見えてきた。

今回お教えする料理は、料理上手な母がよく作ってくれていた万能おかずです。煮詰まったすき焼きの残りの具材を翌日温めてご飯にかけて食べたりしますが、あれの応用版みたいなお料理ですね。材料はレシピ通りでなくて構いません。冷蔵庫の中に残っている野菜をどんどん活用して作ってください。お肉も豚肉でも、またはひき肉でも構いません。子供の頃、僕はこれが冷蔵庫にいっぱい作りおきしてあると嬉しくて、そっと皿に盛りつけて、見つからないように先に食べちゃったりもしました。で、減ったところはきれいに平らにして、つまみ食いがバレないようにしてね(笑)。ひんやり冷たい生野菜の上に、熱々のこのディップをかけて食べてみてください。すごくおいしいし、少ししんなりしてお野菜がたくさん食べられますし、もちろん白いごはんにディップをのせるだけでも十分です!

万能肉野菜ディップ

万能肉野菜ディップ

コツ・ポイント

火を通す野菜は大きめのみじん切りで大きさを揃え、一緒に煮上がるようにする。生で食べる野菜類はよく水をきっておく。使う野菜は何でも良いので、冷蔵庫の整理もかねて作ってください。

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