ピックアップシェフ

茂出木 浩司 たいめいけん 祖父が作った老舗の味を守りながら一歩進んだ自分らしい洋食を作りたい。

『たいめいけん』三代目として歩む決心をさせた祖父からの遺言が支えだった。

料理人をカッコイイと思ったことはないし、子供時代は家業がコンプレックスだった。

私の家族は『たいめいけん』を創業した祖父、そして二代目の父、そして祖母と母、姉の6人家族でした。
当時、中央区新川にあった4階建ての自宅は、祖父が昭和6年に最初に店を創業した建物でした。店で働く従業員の寮も兼ねていたので、周りにいるのはすべて料理人、という世界で育ちました。お風呂も6人ぐらいいっぺんに入れるような大きなものだったので、みんなと一緒に入浴したり、食事も一緒にとったりという共同生活です。
でも昼間は祖父母も両親も全員店で働いていましたので、鍵っ子として家でひとり過ごすことが多かったですね。店の厨房に入るのは許されていたので、ときどき見よう見まねで食べたいものを自分で作ったりもしていましたが、その頃は将来料理人になるとは全く考えていませんでした。
私が小学生の頃は、商社マンのような会社勤めのお父さんが偉い、みたいな風潮があり、料理人はあまりいい職業とは思われていませんでした。祖父や父はときどきテレビにも出る有名な料理人でしたけれど、友達からは「お前んち、食べ物屋なのか」と、半ば下に見られるように言われていましたね。今だったら、すごいなあ、と羨望の眼差しかもしれないけど、まぁ、1970年代はそういう時代でした。
日本橋界隈にはたくさんの料理人がいましたが、当時の記憶では一斗缶に座ってタバコをふかしながら競馬新聞を読んでいるようなイメージ(笑)ですね。これぞザ・職人、というような。だから全く憧れてはいなかったし、料理人をカッコいいと思ったこともなかったんです。今はなりたい職業ランキングにも入るほど料理人は人気職業、と聞くたびに、時代は変わったなぁと感じています。

料理人をカッコイイと思ったことはないし、子供時代は家業がコンプレックスだった。

お前は『たいめいけん』の三代目だ、という祖父の遺言で料理の道を歩むことを決心。

本当は料理人になりたい、店を継ぎたいと思わなくちゃいけなかっただろうけど、正直、後継者だからといって継がなくてはいけないという気持ちはなかったですね。高校を卒業する頃になってもその気持ちは変わらなかった。卒業後アメリカに渡ったのは、自分探しだったと思います。予定としてはアメリカの大学を卒業する気持ちで行きましたが、語学学校の段階で諦めてしまいました。料理人を目指すなら、ヨーロッパに行くべきでしたけど、私はその頃アメリカの文化、ライフスタイルに憧れていたのでとにかくアメリカだ、という単純な理由で(笑)。しかし何も変わらないまま帰国しました。
予定を切り上げて日本に帰ってきたので、さすがにこれではヤバイ、そろそろちゃんと料理人を目指さないといけない、と思い始めていました。
私が小学校5年生の時祖父が亡くなりましたが、形見分けでもらった祖父の本の中に「お前は『たいめいけん』の三代目だ。一生懸命頑張りなさい」という内容の手紙があったんですよね。その祖父の遺言が、いちばん背中を押してくれたと思います。修業先は自分で探しました。希望としてはホテルのダイニングで働きたかったのですが、面接に行っても「どうせ辞めちゃうんだから、採れないですね」とはっきり言われたこともあります。まぁ『たいめいけん』の息子なので、そういう先入観を持たれてしまうのは仕方がないけど、ちょっと悔しかったですね。
それでも修行先を探し、都内の洋食店数軒で働きましたが、いざ働いてみたものの、人の下で働くということが性格的にダメでした。逆らう、文句を言う、仕事に行かない、という3本立てで(笑)。というのも、この人から学びたい、と思える尊敬できる先輩が見つからなかったんです。自分で言うのもなんですけど、うちの店は都内でも三本の指に入る洋食店だったので、いったいどこで修行すれば『たいめいけん』以上の技術が得られるのか、分からなかったんです。

お前は『たいめいけん』の三代目だ、という祖父の遺言で料理の道を歩むことを決心。

『たいめいけん』の看板があるから守るものもあるし、チャレンジもできる。

要はナマイキだったんですよね。小さい頃から料理人の世界の中で育ってきたし、料理人としての腕もないくせにナマイキなんですよ。
それでも『たいめいけん』の味とともに成長してきましたから、味覚に関しても“舌がレシピ”という自負は人一倍あります。もう他の店で修行するのは無理、と思った24歳の時『たいめいけん』に入りました。
その頃父は経営に専念していましたので、父から料理を教えてもらうことはなかったのですが、古くから働いている回りの料理人さんたちからは、できないんじゃないの、みたいな雰囲気が伝わってきました。27歳でシェフになったときも、回りの空気はあまり変わらなかったけど、まぁ、ここまでやってきましたからね。支えてくれたのはやっぱり祖父の「頑張れ」という遺言ですね。それでここまでやってきたようなものです。
今年46歳になりましたけど、40過ぎてからかな、古くからの料理人さんたちがやっと言うことを聞いてくれるようになったのは(笑)。もちろん三代目ならではの大変さもあります。でも、自分ひとりでゼロから店を築き上げている料理人の方々の方が何倍も大変だとわかっていますので、あまり言わないようにしています(笑)。
『たいめいけん』の洋食は昔からのものなので、昔の味を守っているとしか言いようがないんですよね。新しいことにチャレンジして欲しいと言われても、してないというか精いっぱいやっているだけ。攻めてないんです、攻めているフリだけ(笑)。まぁ、新しいことができるのもこの店があるから可能なことです。初代の立場ではできませんからね。そういう意味で私は運がいいのかなと思います。
しかし目先の変わったことばかりをしたら、こういう昔からあるお店にお客様は来ていただけなくなっちゃうので、『たいめいけん』の味を守りながら自分自身の洋食も作り出したいし、料理人として成長もしたい、そのバランスがいちばん重要だと思っています。   (後編へ続く)

『たいめいけん』の看板があるから守るものもあるし、チャレンジもできる。

店と同じレシピで祖母がよく作ってくれた思い出のおかず、ポークジンジャー。

今回お教えする料理『ポークジンジャー』は、祖母がよく作ってくれた思い出の料理です。
とはいえ、祖母や母が作ってくれるものは、全て『たいめいけん』でお出ししている味そのままでしたので、古くからの店のレシピでもあるんです。いまでこそ『たいめいけん』はオムライスがとても有名ですが、私が子供の頃はこのポークジンジャーや海老フライが店の人気メニューでした。
店の定休日に祖母がよく作ってくれた、大好きなごはんのおかず。切り落としの豚肉でもいいんですが、よりおいしく作るなら、豚ロース肉の薄切りで作ったほうが味は断然上です。薄い肉がいいのは、厚めの肉より味がよくからまるからですね。
ご家庭では肉をそのまま焼いて、最後に生姜入りのタレをからめて召し上がっていると思いますが、ひと手間かけて小麦粉を振ってから焼いたほうが味もよくなじむし、おいしい焼き色もつきます。まさにごはんに合う洋食メニューの代表格。ソース作りにもひと手間かけて、ぜひ『たいめいけん』のおいしいポークジンジャーをマスターしていただきたいと思います。

ポークジンジャー

ポークジンジャー

コツ・ポイント

豚肉を焼く前に強力粉をまぶし、ソースを絡みやすくします。 お肉が曲がらないよう、押しながら焼き、平らに仕上げます。

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