ピックアップシェフ

神保 佳永 HATAKE AOYAMA 父が作るプロの味と母の愛情料理が教えてくれた大切なこと。

神保さんの父が作っていたハイカラなシーフードドリアは、いまも故郷の人々の語り草になっている名物料理。そんな本物の洋食の味を、いつか復活させるのが自分の役目だと言う。

毎日食卓に上がる新鮮なとれたての刺身を食べて、魚を見る目が肥えた。

僕は茨城県日立市で生まれました。亡き父は料理人で、僕が子供のころは、喫茶店とイタリアンレストランを経営し、母も店を手伝っていたので、学校から帰っても、家には誰もいないという家庭。子供から見ても、いつも忙しく働いているという印象の両親でした。

毎日食卓に上がる新鮮なとれたての刺身を食べて、魚を見る目が肥えた。

僕と弟、妹は、学校からまっすぐ近所に住む母方の祖父母の家に行って夕食を食べ、夜、仕事を終えた両親が僕らを迎えに来て、自宅で寝る、というような生活でした。だからいちばん記憶に残る家のご飯の思い出というと、祖父母の家で食べていた夕食なんですよね。祖父は漁師だったので、毎晩、あさりやしじみ、または魚のアラのみそ汁にご飯と漬物、おかずはマグロや鰹、ヒラメなど、その日獲れたばかりのピチピチのお刺身が食卓に上がり、たまに子供たちのために、お肉を焼いてくれたりしていましたね。とにかく両親と食事する機会が、ほとんどなかったので、好きなものだけを食べるという、決して褒められた食生活ではなかったんです。あまりに刺身を食べていたので、東京に出てきてからも、友達に「刺身を食べに行こう」と言われると、「えー、刺身? 肉にしようよ」って店を変えてもらったりしていましたね。僕としては、刺身は外で食べるものじゃないし、ご馳走でもない、という気持ちだったので(笑)。でもまぁ、港町に育ち、毎日新鮮な魚を食べさせてくれた祖父のおかげで、魚を見る目と舌は、ずいぶん養われたと自負しています。

父が作っていたおいしくてハイカラな本物の洋食は、故郷の人々の思い出の味に。

僕の父は大学を卒業した後、企業には就職はしないで、すぐに横浜の『ホテル・ニューグランド』で料理人の修行を始めました。父は兄弟が多かったので、早く家族を養いたいという気持ちが強かったのかもしれません。そこで洋食の料理人として一から勉強し、修行の合間には、自費でアメリカやヨーロッパを回って、食べ歩きをしたりしていたそうです。そんな父が26~7歳で地元に戻り、料理人として独立して開いた店が『茶亭堂』という喫茶店です。駅前にあり、30年前には珍しいコンクリート打ちっぱなしのモダンな店で、きれいな絵画を飾ったりして、店のインテリアにも凝っていたのを思い出します。日立は大きな工場もあるし、大学や高校もたくさんあり、田舎とはいえ、若い人たちがとても多い地方都市です。父が作り上げた当時としてはハイカラな店は、日立ではかなり有名で、いまもなお「『茶亭堂』のシーフードドリアが食べたいな」とか、「サラダスパゲティの味が懐かしい」と言っていただけるような、日立の人々の人生の一場面の中に、いわば忘れられない味の記憶として残っているような存在なんです。僕もどこに行っても、神保です、ではなく、『茶亭堂』の息子です、といえば、誰もがすぐに分かってくれるような感じでした。友達の家に遊びに行くときは、店のケーキをお土産に持っていくと喜ばれましたよ。ときどき友人お母さんが、うちのケーキをわざわざ買って出してくれることもあり、そういうときは、ちょっと恐縮しましたけど(笑)。

父が作っていたおいしくてハイカラな本物の洋食は、故郷の人々の思い出の味に。

祖父母がいないときは、両親が働く店に、ご飯を食べに店に行くんですが、「お腹すいたー」と言うと、父がいつも作ってくれたのが、この「シーフードドリア」でした。港で揚がった新鮮な魚介類をふんだんに使い、ベシャメルソースとチーズをたっぷり乗せて焼くシーフードドリアは、『茶亭堂』で一番の人気メニューでした。僕も数え切れないほど食べましたけど、いつもおいしかった。ここまで贅沢に作って、値段は780円だったかな。僕の店では、とてもその値段では出せません(笑)。ていねいに作ったベシャメルソースに、魚介を白ワインで煮て、うまみがたっぷり出た魚介のジュースを混ぜた、海の香りいっぱいのソースで作るのが、父のレシピですが、僕がその通りに作っても、全く同じ味にはならないんですよね。なんというか、父のドリアは“昭和の味”なんです。当時とはチーズもバターも牛乳も違うし、とにかくあれだけ新鮮な魚介類は、なかなか手に入らないからなぁ、と食材の違いで納得しようとしていますけど、なんか、いま作ると上品な味、になってしまうんですよ。やっぱりオヤジにしか作れない味だったんだなあ、とつくづく思っています。

父が思い描いていた親子で一緒に働くという夢は実現しなかったけれど。

そんなふうに毎日忙しく働く両親を見て育ったので、自分は絶対に店を継がない、商売人にはならないと、中学生ぐらいから決めていました。その頃の夢は学校の先生でした。僕が道を外れそうになったとき、本気で指導してくれた、いわば熱血先生がいらっしゃったので、教師に対する憧れが強かったんです。しかし父には猛反対され、ずいぶん抵抗しましたけど、最終的には長男の僕が、店の跡を継ぐということで納得し、夏休みに調理師専門学校の体験入学行ったところ、既に父がその学校に入学金を振り込んでいたんですよ(笑)。もうびっくりです。

父が思い描いていた親子で一緒に働くという夢は実現しなかったけれど。

その後、僕は専門学校を卒業して、ヨーロッパに修行に出るのですが、それもずっと前からの、父の夢だったようです。自分は海外で学びたくてもできなかったので、息子にはそうさせたいという夢。向こうで地に足をつけて、料理の勉強と文化を吸収して来い。そして帰国したら、東京で勝負してトップのシェフになれ、と言われました。でも残念ながら、僕がヨーロッパで修行している20歳のとき、父が亡くなりました。まだ49歳でした。
父の死をきっかけに、僕はもっともっと料理に深く携わりたいと思うようになりました。料理人の厳しい世界を、修行中に目の当たりにする経験を経て、いま、自分の店が持てるまでになったのも、父のおかげです。10代の頃、あれほど料理人は嫌だと、父に抵抗したものの、料理の道に進ませ、自分の個性で世に出ていける仕事をさせてくれたのは父ですからね。感謝の気持ちでいっぱいです。たぶん父の最終的に描いていた夢とは、僕が故郷に帰り、一緒に店で働くことだったと思うんです。それがかなわないのが、残念でたまらないのですが、僕としては父が築いた『茶亭堂』を、ゆくゆくはもう一度復活させたいという新たな夢を抱いています。いま、ファミレスに行けば、たいていの洋食は食べられます。でも、そういうものではなく、父が出していたような本物の洋食の味が必ずあると思うので、店と共にこの「シーフードドリア」のような“本物の味”も、絶対に復活させたいと思っています。

父親のシーフードドリア

父親のシーフードドリア

コツ・ポイント

ベシャメルソースに魚介類の風味を移したソースのおいしさがポイント。 ソースが焦げつかないよう絶え間なく攪拌し、魚介のジュースを入れてからもさらに攪拌し、なめらかなソースを作りましょう。

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