ピックアップシェフ

杉本 敬三 Restaurant La FinS (レストラン ラ フィネス) お客様といい信頼関係が築ける料理人でありたい。目指すのはお寿司屋さんのようにわがままが利く店。

若い料理人が競い合う【RED U-35】初代王者。その才能は子供の頃から群を抜いていた。 小さい頃から自分の舌がいちばんおいしいと感じ

小さい頃から自分の舌がいちばんおいしいと感じる料理を作っていた。

私は京都府福知山市の出身です。呉服屋を営む両親の次男として生まれました。父は兄も私にも店を継がせる気はなく、「呉服の時代はもう終わるから、自分限りでこの店はたたむ」と事あるごとに話しておりました。兄もホテルで働いた後、現在は銀座のフレンチレストラン『タテルヨシノ』でサービスの仕事につきましたので、兄弟揃って食の世界で働くことになったわけです。

小さい頃から母の手伝いで台所に立つのが好きな子供でした。最初はりんごの皮をむく程度でしたけど、それを褒められると嬉しくて、もっとやりたい、お手伝いしたい!という感じでしたね。あるとき父と近所を散歩しているとき、土手いっぱいにつくしが生えていて、「これは食べられるんだぞ」と父が言うんです。その言葉に驚き、たくさんつくしを摘んで持ち帰り、一本一本ガクをとって下茹でしてから、調味料を入れてコトコト煮て佃煮にしたらおいしく出来上がり、家族にすごく褒められたことは、いまだに忘れられない思い出です。
「そんなに料理が好きなら、料理人になればいいじゃない」と両親に言われ、8歳の時に自分用の包丁と砥石を買ってもらいました。それからは大根のかつら剥きや花人参や、釣ってきた魚をおろしたりなど、和食の基本のようなことを楽しみながらやっていました。当時からサッカーをやっていたんですが、ボールを蹴ることと同じぐらい料理も好きでした。ときどき母を休ませて私が台所を占領し、おかずを全部作ることもありました。
8歳の男の子かどうしてそこまで?、とよく聞かれますが、動機はすごく単純ですよ。自分で食べたいものを作りたい、おいしいものを食べたい、ということだけ。だけど誰かが作ったおいしいものを再現したり、レシピ通りに作るのではなく、自分で味つけして作る料理が好きなんです。自分自身がいちばんおいしいと感じる料理が好き、というのかな。その気持ちは今も全く変わっていません。初心を忘れないとよく言いますけど、ほんと今もそのまんまのスタンスです。その後、素晴らしいシェフの方々のもとで働いたり、研修もたくさんさせていただきましたけど、その経験が私の料理そのものに影響したかといえば、ほぼ“ゼロ”だと思います(笑)。

小さい頃から自分の舌がいちばんおいしいと感じる料理を作っていた。

高校時代、春、夏、冬の長期休みは全てレストラン研修。とにかく楽しかった。

高校1年のときには、卒業したら『辻調理師専門学校・フランス料理カレッジ』に進み、将来は料理人になると決めていました。とはいえ、ずっと続けていたサッカーでは国体に出場するほどでしたし、学業では数学が特に好きで成績もよく、模擬テストは常に10番以内。東大や京大に何人も入るような進学校に進みましたので、選択肢はほかにもたくさんあったんです。先生方にも「どうして東大や京大を目指さないで、調理師学校なんか行くんだ。人生踏み外すぞ」とまで言われましたけど、「いや、僕は料理界の東大に行きますから」と返していました(笑)。

高校に入ってからは地元の地中海レストランでアルバイトをはじめ、サッカーと学校と忙しい毎日でしたけど、もっと料理を知りたい、見てみたいと思い、毎週日曜日には京都にあった『パリの食堂』というビストロで研修させてもらっていました。研修なのでバイト代はもちろんありません。そして『パリの食堂』の早川佳毅シェフに、大阪の『ミチノ・ル・トゥールビヨン』道野正シェフを紹介していただきました。夏休みと春休みはカプセルホテルに寝泊まりしながら『ミチノ・ル・トゥールビヨン』で研修し、さらに深くフランス料理を学んでいました。冬休みには白馬のオーベルジュで研修していたので、全て休みは料理研修にあてたわけです。

どうしてそこまで?と聞かれても「楽しいから」ですね(笑)。別に誰かにやれと言われたわけでもなく、自分がやりたいから。それだけなんです。道野シェフには「料理の中にストーリーを作りなさい」と教えてもらいました。思いつきで作るのではなく、料理の素材や流れにちゃんとストーリーがあり、それが弧を描いて最後に円になるのがいい料理だ、と。特に古典料理には一つ一つにストーリーがあるので、それを知らずに作るのと知って作るのでは全然違う。「料理人なら知っていて当然だ」と言われ、一生懸命勉強しました。あまりにも勉強しすぎて、道野さんが知らないことまで披露したので「オタクと職人は違うんだぞ、お前はオタクだ、頭でっかちでは仕事できん」と言われましたけどね(笑)。

高校時代、春、夏、冬の長期休みは全てレストラン研修。とにかく楽しかった。

地元のレストランを借り切り、コース料理を全て一人で作る料理フェアを開催。

そうやって2軒のレストランで学んだフランス料理を、自分で作って食べてもらいたいと始めたのが、『料理フェア』です。とはいえまだ高校生なので場所も資金もありません。そこで地元のレストランを借り切り、1万円でコース料理を出しますと、まず先にお金を頂いて食材を揃え、全て私が料理して提供するというスタイルで、何度かフェアを開催しました。お金を先に頂くっていうのもひどい話ですが(笑)、それでも毎回12~15人ぐらいの方が来てくださいました。

当時のメニューを改めて見てみたら、なかなかのものなんですよ。いっちょまえにフランス語で書いてあって、白子のフリット プロヴァンス風とか、フロマージュ・ド・テッド、豚の頭をさばいて煮込んでテリーヌ風に固めたものですね。そしてフォアグラ、穴子と塩釜玉ねぎにメインは鹿肉・・・みたいな。1万円も頂いているのでそれなりのものを出さないとね(笑)。そしてデザートはティラミスやショートケーキ、ロールケーキなどいろいろ作って、好きなだけ食べてもらうというスタイルでした。当時は自分が食べたいものを作るというポリシーでやっていましたけど、それでも来てくださった方々は、おいしいとすごく喜んでくださいました。
高校を卒業して上京し、『辻調理師専門学校・フランス料理カレッジ』で1年間学びました。在学中、休みの日に研修させていただいたのが三田の『コート・ドール』でした。学生なんかとても働けないと聞いていたお店ですが、私の料理フェアに来ていただいたお客様のツテで、3ヶ月ほど斉須政雄シェフのもとで働かせていただきました。

そしてその後は、いまもたいへんお世話になっている『ル・マンジュ・トゥー』の谷昇シェフとの出会いもありました。『ル・マンジュ・トゥー』で働いたのは12月の繁忙期の2週間だけなのですが、私が厨房をがっつり掃除していたら「こいつはおもしろいヤツだ」と思われたみたいで(笑)。卒業後は日本にとどまらず、フランスに行くように勧めてくれたのも谷シェフ。そのアドバイスに従って、19歳の私はフランスへと旅立ったのです。  (後編へ続く)

地元のレストランを借り切り、コース料理を全て一人で作る料理フェアを開催。

フランス語の辞書で見つけた料理を想像しながら作り、まかないとして出した。

今回お教えする『若鶏のトマト煮込み、バスク風』(プーレ・バスケーズ)は、とても思い出のある料理なんです。高校生のとき『ミチノ・ル・トゥールビヨン』で研修を始めた2日目に「僕にまかないを作らせて下さい」と頼んで作ったのがこの料理。レシピもほぼ同じですが、実はその日に初めて作ったんですよね。
当時、私はフランス語の辞書を読むのが好きで、プーレ・バスケーズ、へぇおいしそうだな、食べてみたいなと思っていたものです。でも辞書には作り方はもちろん書いてなく、材料しか記述がないので、鶏肉はこんがり焼いたほうがいいな、野菜はこう切って煮込んで・・・みたいに全て想像して作りました。
それを食べた道野シェフが「これ、誰が作ったんだ?」というので「僕ですけど、なんかまずかったですか」と聞くと「いや、うまい!」と言われてびっくりしました(笑)。その後もまかない料理でよく作りましたね。ペンネやパスタを添えてイタリアン風にすれば、さらにボリュームも出ます。野菜はこのほかナスなど冷蔵庫にある野菜を入れて、ラタトゥイユ風にしてもおいしいでしょう。

若鶏のトマト煮込み バスク風

若鶏のトマト煮込み  バスク風

コツ・ポイント

鶏肉の皮目をしっかり焼き上げてから、トマトソースで煮込みます。 にんにくやタイムをきかせることでバスク風に仕上がります。 トマトの水煮缶を入れる前の野菜は、よく炒めましょう。野菜にもフライパンでしっかりと火を入れるため、あまり煮込まないようにするのがポイントです。

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