ピックアップシェフ

本多 哲也 Ristorante HONDA  感謝しているのは素晴らしい人たちとの出会い。その全てが僕の料理に生きている。

フランスとイタリアでの修業で、東京でリストランテに挑戦したいという思いが強まった。

みかんをもいで食べたり、大人数でごちそう賄い料理を食べたり、豊かな食生活だった。

僕は小田原で生まれ、共働きの両親と妹の4人家族で育ちました。父はサラリーマンでしたが、親戚は農家や商売をしている家が多く、祖父母の家もみかん農家でした。収穫の時期には幼い自分も駆り出され、みかんやお茶、梅や柿などの収穫を一生懸命手伝ったことは、いまでもいい思い出です。みかん山で作業を手伝っていると、のどが渇きます。祖母に何か飲みたいというと、目の前にみかんがあるだろうって(笑)。それもスズメやヒヨドリがついばんで穴をあけたみかんが、いちばん甘くておいしいから、それを食べなさいと言うんです。田舎ならではの知恵というのかな、そういうことを畑の中で教わりながら、たくましく成長していった子供時代だったと思います。
中学生になると湯河原で花屋を経営していた叔母の店に送りこまれ、夏休みや冬休みの半分ぐらいは花屋の仕事を手伝いました。お正月の注連飾りを夜なべで作ったりして、めちゃくちゃ働かされながら、叔母さんから仕事とはこういうものだと叩き込まれましたね。そのとき楽しみだったのが、賄いの御飯でした。スタッフと従兄弟たちで20人分ぐらいの賄いを、料理上手な若奥さんが作ってくれるんですが、どれもおいしかったんですよ。ハンバーグやホタテのクリーム煮、ピーマンの肉詰めなどの洋食から、その日湯河原で採れたばかりの魚料理まで、いろんなごちそうが食卓にあがったんです。子供心に、おいしいものをみんなで食べて笑顔になると、幸せな気持ちになれるんだなぁと感じました。
わが家も母が働いていて忙しかったので、週末は父が気を遣ってよく僕たちを外食に連れて行ってくれました。おいしいと評判の洋食レストランや鰻屋さん、ホルモン焼き屋さんとか、家族揃っておいしいものを食べに行った経験は、いまも感謝しています。そんな環境でしたので、僕自身もごく自然に手に職をつけたい、それならみんながおいしいと喜んでくれる料理の仕事もいいなぁ、とそのころから思い始めていました。

みかんをもいで食べたり、大人数でごちそう賄い料理を食べたり、豊かな食生活だった。

本物のイタリア料理とはこういうものだと大きな衝撃を受けた「ペペロンチーノ」。

高校2年のころ、進路をどうするかという時期には、僕は東京の調理師学校に進み、将来は料理人になりたいと決めていました。父には反対されましたけど、自宅から通うからという約束でなんとか説得して、東京調理師専門学校に入学しました。もうそのときはイタリアンを学びたいと決めていたのです。その理由は、高校生のころ、小田原にもぽつぽつでき始めたカフェバーで食べるスパゲッティが大好きだったから。まだ「パスタ」という呼び方は無かった時代です(笑)。自分もスパゲッティを作りたい、それならイタリアンしかない!と一途に思い込んでいました。とはいえ、学校には毎日遅刻するような生徒でしたけど、無事に卒業し、学校の先生の紹介で渋谷の『リストランテ トゥーリオ』の猪狩英次シェフの下で働くことになりました。
『リストランテ トゥーリオ』は、当時の東京で10本の指に入るほどレベルの高いイタリアンレストランだったと思います。猪狩シェフは料理は見て盗め、という昔気質の方でしたけど、料理以外の大事なこと、社会人として、料理人としての責任や生き方など全てを教わった気がします。店には食器洗浄機がなかったので、僕らが一枚一枚お皿を洗い上げ、ピカピカに磨き上げます。どうしてお皿をきれいに洗うのか。それは「お客様に出すものは一枚一枚自分の手できれいに磨かなければいけない。そうすれば作り手としての気持ちが料理に入るんだ」と教わりました。皿洗いは雑用ではなく、料理人の大事な仕事だと。僕もいま店のスタッフに「きれいに洗うことのできない人間は、いい料理ができない」と言っています。洗浄機はありますけどね(笑)。いまも猪狩シェフに教わったことが僕の料理人としてのベースになっていると思います。
『リストランテ トゥーリオ』では、いままで自分がイタリア料理と思っていたものは、全く別物だったと分かりました。パスタ一つとっても、丁寧にソースを作り、しっかりと和える。何から何まで衝撃でした。いちばんびっくりしたのはシェフが賄いで作ってくれたペペロンチーノでした。とにかくオイルを入れたフライパンに全神経を集中して作っている姿を見ると、雑に食べてはいけないと思いましたし、鍋に残ったソースを全部なめたいほどおいしかったことは、いまも忘れられません。

本物のイタリア料理とはこういうものだと大きな衝撃を受けた「ペペロンチーノ」。

西洋料理としてのフランス料理とイタリア料理を学び、視野が広がったヨーロッパ修業。

『リストランテ トゥーリオ』で3年間働いた後、数件の店で仕事をしました。なかでも長くお世話になったのは『リストランテ・スカレッタ』の筒井力丸シェフです。僕がいた当時は三島で店をスタートされたころで、地方らしい特色を出したイタリア料理を提供していました。筒井シェフはイタリア料理のベースは西洋料理、つまりフランス料理が全ての基礎であるという考え方。イタリア料理といえどもフランス料理も学ばなければならないと仰り、その思いにはすごく影響されました。僕もすぐにフランス料理の本を買いあさり勉強を始めました。店で出す料理も単に焼いて煮込むだけの肉料理ではなく、フレンチの手法でローストしたり、デザートもフレンチ出身の方が作っていたりと、西洋料理としてのイタリアンをじっくり学ぶことができました。
28歳で僕はヨーロッパに渡りましたが、最初はフランスで研修したので、三島で身につけた経験がとても役に立ちました。パリからアヴニョン、プロヴァンスのオーヴェルジュとフランス各地のレストランで1年半ほど働き、筒井シェフに教わったことを全て裏付けたというか、確認することができたんですよね。
イタリアではミラノの三ツ星レストラン『アンティカ・オステリア・デル・ポンテ』で働くことになりました。星付きの店で働きたかったので、運が良かったと思いますし、シェフのサンティン氏がフランス料理の技術を取り入れている方だったので、一軒目にしては働きやすかったですね。ここでもフランスで働いた経験が歓迎され、アミューズの部門を任されたほか、前菜や魚の部門にも関わることができました。三ツ星だけあって使う素材も素晴らしく、イタリアでは珍しいお刺身で食べられるほどの新鮮な魚介も使いますし、野菜やフルーツも味が濃厚です。イタリアならではの新鮮な素材の魅力を知り、三ツ星レストランならではの食材に対する考え方も吸収することができました。
ヨーロッパに来る前は、自分で店をやるならオープンキッチンでにぎやかな雰囲気のトラットリア的なレストランをイメージしていました。でもフランスとイタリアで過ごすうちに、リストランテに挑戦したいという思いが急激に強くなっていきました。 (後編へ続く)

西洋料理としてのフランス料理とイタリア料理を学び、視野が広がったヨーロッパ修業。

初めてイタリアに行ったとき知り合ったシェフに教えてもらった感激のボンゴレ・レシピ。

今回お教えする料理は『ボンゴレ ビアンコ』。ポピュラーなパスタですが、いままで食べたことのないようなおいしいボンゴレですので、ぜひ作り方を覚えてほしいと思います。イタリア料理の世界に入る前も、喫茶店などでボンゴレは何度も食べていました。でも『リストランテ トゥーリオ』に入って食べたボンゴレは、まず、生のあさりを使うことにびっくり。当時、生のあさりなんて味噌汁でしか見たことがなかったですからね(笑)。食べてまたびっくり、こんなにおいしいボンゴレがあるのかと大きな衝撃でした。
当時教わったレシピは、あさりを入れたら鍋にふたをして蒸し煮する方法ですが、これは進化形です。オイルの中にあさりを入れて蒸し煮しないでゆっくりと鍋を回しながら、あさりから出るうまみとオイルをじっくりと乳化させて煮詰め、濃厚なソースにしていくのです。実はこの方法は、23歳の時初めてイタリアに遊びに行ったときに知り合った、実家が漁師のシェフに作ってもらって感激したレシピなんです。彼曰く「弱火で時間をかけて作るけど、これがいちばんあさりにストレスを与えないで、おいしくできる方法なんだよ」と。最初からたくさんのイタリアンパセリを入れるのも彼のやり方。こうするとパセリの清涼感のある香りもソースに溶け込みます。ドロっとした濃厚なソースになったら完成です。途中、水分が足りなくなったら水を少し加えてください。うまみが凝縮されたこのソースに、茹で上がったパスタをていねいに絡めて、召し上がってください。びっくりするほどおいしいですよ。

ボンゴレビアンコ

ボンゴレビアンコ

コツ・ポイント

フライパンを回し続けながらゆっくり火を入れることで素材から出る水分を乳化させ、濃厚でねっとりしたソースを作ります。 イタリアンパセリを多めに入れるのもポイントです。 あさりの持つ塩分だけで仕上げますが、最後に味をみて、塩味が足りないようなら足してください。

レシピを見る

  • facebookにシェア
  • ツイートする
  • はてなブックマークに追加
  • 文:
  • 写真: