ピックアップシェフ

マリオ フリットリ Mario i Sentieri (マリオ・イ・センティエリ) 故郷トスカーナの味とともに僕らしいエンターテインメントを加えた料理を。

27年前日本に来たときからイタリアの食文化を発信する気持ちだった。

遊び場はレストランや野菜畑。子供のころから料理に熱中していた。

僕の故郷はフィレンツェが州都のイタリア・トスカーナ州。州の西側にある風光明媚な港町で、夏のバカンスシーズンには多くの人が押し寄せるリゾートタウン、ヴィアレッジョで育ちました。父はイタリア空軍のパイロットだったので、仕事で各地を転々としていて、いつも忙しく仕事熱心な人でした。母は専業主婦でしたけど料理の腕は、うーん、まあ普通だったかな(笑)。両親はミラノが州都のロンバルディア州出身なので、とにかく真面目。でも僕はトスカーナのDNAが濃いのか、あんまり真面目じゃないんですけどね。
我が家の隣にはレストランがあり、僕の親友の家族が住んでいました。その店は牧場と畑を持っていて、すべて自家製食材で料理を出しているファームレストラン。小さいころから格好の遊び場として畑や牧場を駆け回っていたし、店で余ったパスタなどをご馳走してもらうのが、なによりの楽しみでした。そのうちキッチンの手伝いもするようになり、学校が休みの土日は、ジャガイモの皮をむいたり、遊びの一つのように料理に熱中していきました。
義務教育が終わり、将来の進路を考える時期になると、父は自分と同じくパイロットになることを勧めましたが、答えは「NO!」。というのも性格的に命令を聞くのが嫌いなので、絶対に合わないと思ったんですよね。
それで選んだのが料理人を育てる『インスティテュート・アルぺギロ調理師学校』という4年制の専門学校。14歳で入学し、月曜から土曜日まで毎日イタリア料理の技術や歴史、栄養のことに加えて英語とフランス語をみっちり学びました。真面目な生徒じゃなかったけど、授業だけは熱心に聞いていたので、料理のクラスではいつもトップ。そのおかげで学校が夏休みになるバカンスシーズンは、学校で紹介された名シェフ、アンジェロ・パラクッキ氏の店で6月から9月まで働くことができました。そのおかげで生活費はアルバイト代でまかなうことができ、両親には負担をかけずにすみました。

遊び場はレストランや野菜畑。子供のころから料理に熱中していた。

パスタの神様、パラクッキの店でイタリア料理のベースを全て学んだ。

当時、イタリアの代表的な名シェフといえば、ミラノのグアルティエロ・マルケージ氏と、パスタの神様と言われたアンジェロ・パラクッキ氏の二人でした。いまもパラクッキ氏の店で働くことができたのは、スーパーラッキーだったと思います。当時のレストランは、家族経営の店が多く、キッチンにいるのは少人数が当たり前でしたが、パラクッキ氏の店『ロカンダ・デル・アンジェロ』は12人も料理人がいました。まずそのスタッフの多さにびっくりし、さらには食材の多様さ、料理の構成にも驚かされました。今では普通ですが、料理はすべてコースで出し、イタリア料理では使わないフォアグラ、黒いトリュフ、オマール海老などをどんどん使うんです。それまではアサリのボンゴレレベルのものしか見たことのない僕は、ぶっ飛ぶほど驚きました。イタリア料理の伝統を打ち破るヌーヴェルキュイジーヌだと感じました。
調理師学校を卒業後、パリにあったパラクッキ氏の店で働いた後、再び『ロカンダ・デル・アンジェロ』で働きました。パラクッキ氏はときどきクッキング・クラスの講師もしていて、僕がよくアシスタントに駆り出されたのですが、おかげで料理のレッスンの現場経験も今の仕事にすごく活きています。振り返ると様々なことを吸収させてもらった学校のような場所でした。
そして日本に行くチャンスも、パラクッキ氏からもらったものでした。大阪にあるデパート、大丸にパラクッキ氏とフランス料理のポール・ボキューズ氏が組んで、デリとレストランを出すことになり、誰か日本にスーパーバイザーで行かないか、という話が舞い込みました。手を挙げたのは僕だけ。こういうことになるとイタリア人はコンサバティブ。地元、家族、友人がいちばん、という国民性なので、好き好んで外国には行きたがらないのです(笑)。

パスタの神様、パラクッキの店でイタリア料理のベースを全て学んだ。

日本に来た27年前、イタリア料理といえばスパゲティとピザだけだった。

1987年、僕はイタリアの片田舎から大都市・大阪にやってきました。休みなく走る電車にあふれる車、密集するビルを見て、軽くトラウマになったことを覚えています。勤務先は心斎橋の大丸の食品売り場。隣にはポール・ボキューズ氏のショップが同時にオープンしました。その当時の日本でのイタリア料理といえば、スパゲッティとピザは広く知られているものの、オリーブオイル?エスプレッソ?なんですかそれ?みたいな感じ。日本はそんな時代です。だからある意味、やりがいがあったよね。本物の味を日本に伝えようと、イタリアからあらゆる食材を運び込み、たくさんの種類の料理を作り、毎日毎日一生懸命働いていました。大げさかもしれないけど、「ここからイタリア文化を発信する」というくらいの気概を持ってやっていました。
日本の生活は・・・正直言って最初の3か月くらいは、あまり好きじゃなかった。言葉が通じなかったので、仕事以外の友人がぜんぜんいなかった。まだ僕は22か23歳でしたから、けっこうキツかったよ。そのころ住んでいた東三国から心斎橋まで地下鉄で通っていたんだけど、僕の周りには誰も寄ってこないんです。そうかと思えば子供たちにはガイジン、ガイジン、と呼ばれるでしょ(笑)。
でも日本語のレッスンをはじめて友達もたくさんでき、ガールフレンドもできて、日本の生活が楽しくなってきました。20時にデパートの仕事が終わるので、夜は毎晩ディスコ(笑)。店のほうも軌道に乗り、僕が運び込んだイタリアの食文化がどんどん浸透していく手ごたえを感じていました。
たぶんイタリア料理のシンプルな調理方法、新鮮な食材に塩とオリーブオイル、レモンだけで味を決めるやり方が、日本人の味覚にとても合っていたんだと思います。そして様々なパスタやトマトソース、モッツアレラチーズなどのフレッシュな味わい、それはイタリア料理のいちばんの魅力ですが、日本の食文化と似ていると感じました。  (後編へ続く)

日本に来た27年前、イタリア料理といえばスパゲティとピザだけだった。

ドライトマトのうまみ、乳製品のコクが濃厚なソースになるとっておきのパスタ。

では僕のとっておきのパスタ料理を教えましょう。トマトソースのパスタといえば、定番中の定番ですが、これはちょっと違います。今まで食べたことのないパスタで、びっくりすると思います。ポイントは3種類のトマトを使うこと。3種とはトマトソース、フレッシュトマト、ドライトマトです。それらをじっくり煮てドライトマトからうまみをだし、味をなじませたところに、さらにバターや生クリームなどの乳製品を加えることで、ソースがクリーミーになり、おいしいコクが出ます。これは伝統的なソースではなく、僕のアイディアです。
パスタはイタリアのもっともベーシックな料理ですが、地方色を出したり、自分流にアレンジしたり、あれこれ自由に表現できるのが楽しいんです。チーズが好きなら、この上にモッツアレラチーズやリコッタチーズをのせてもいいですね。パスタの赤、白いチーズ、緑のバジリコで、イタリアの国旗みたいに3色のカラーになります。いつものトマトソースよりも10倍ぐらいおいしいパスタになりますので、ぜひ得意のパスタメニューに加えてほしいです。

タリアテッレ 3種類のトマトを使ったソース

タリアテッレ 3種類のトマトを使ったソース

コツ・ポイント

香り高いソースにするためには、風味をオイルに封じ込めることがポイント。 バター&オリーブオイルでじっくり火を通し、バジリコの香りを引き出しましょう。 トマトは、酸味を出したい時はフレッシュトマトから、甘味を引き出したい時はドライトマトから炒めはじめることで味に変化がつきます。

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