ピックアップシェフ

永島 健志 81(エイティワン) 食の表現者になって、世界に対して勝負をかける。

様々な挫折と葛藤を経験し、料理人としてのアイデンティティが生まれた。

プロサッカー選手の夢を諦めて、海上自衛隊へ入隊。

大阪出身の父と台湾出身の母の長男として1979年に生まれ、育ったのは日本。台湾には祖母が健在で、何度も行き来してきたので、台湾が外国という感じはしないですね。
でも日本が故郷か、というと正直その気持ちも薄いんです、何しろハーフなので。そのあたりが欠落している人間というか、自分は何者なのか、いまだに分からないというか、分からなくてもいいことなのか、そんな風にずっと胸の中で思ってきました。
少年時代の僕は、小学校からサッカーに熱中し、試合に出れば点を入れていたので、常にチームの中心。高校入学後はクラブチームに入り、学校へはあまり行かずに、サッカーに明け暮れる毎日を送っていました。でもクラブチームに入った途端、普通の一選手になってしまった。まわりはプロを目指す上手いヤツだらけですからね。それで自信を失いかけ、モヤモヤした心境でサッカーを続けていたんですが、ケガで左ひざを痛め、練習ができなくなってしまったんです。それで何かがバンと弾けて、サッカーをやめてしまったんですよ。かといって真面目に学業に励むという性格でもなく、運動に明け暮れた生活から一転し、いかに楽しく生きるかという高校時代を送っていました。学校もあまり行かず、勉強もしない・・・というような毎日です。だから卒業を控えても、将来について夢も希望も全くありませんでした。そんなとき自衛隊に入らないかと誘われ、やりたいことも無いし、まぁいいかなぁという位の気持ちで海上自衛隊に入隊しました。

プロサッカー選手の夢を諦めて、海上自衛隊へ入隊。

20歳のころ大きな衝撃を受けた『エル・ブリ』のアーティスティックな料理。

最初に京都の舞鶴にある教育隊へ行き、厳しい訓練を6か月受けました。入隊した途端に坊主にされ、毎日走り込みからボートの訓練、剣道、体操、船乗りになるための手旗信号の練習など、それはそれは予想以上に厳しかったですよ。でもサッカーをやっていたおかげでキツイ訓練も耐えられました。仲間とも楽しくやっていたし。しかしこれから専門的な訓練、という寸前に色覚異常を指摘され、後方支援のほうに回されてしまった。それで自衛隊内にある技術学校に行くことになり、包丁を持ったことも無い僕が料理を学ぶことになったんです。料理をする為に自衛隊にいるんじゃないと思ったので、そのときはショックでしたね。卒業後は横須賀に移り、イージス艦『きりしま』に乗務し、厨房の任務に就いていました。しかしそのころからやっと、自分がやりたいことがおぼろげながら見えてきたんですよね。何かクリエイテイブなことをやりたい、アートに関する仕事をしたい、とか全く自衛隊とは違う分野ですよ(笑)。それで自衛隊は3年で辞めよう、その後は学校に入ろうと思っていたんですが、いざ除隊してみると、ちょうどフリーターという新しい生き方が世間には生まれていて(笑)。サッカーのコーチとバーテンダー、レストランのバイトを掛け持ちして、湘南に住み、サーフィンをしながらバイトに明け暮れる生活が始まりました。
レストランのキッチンの仕事は案外楽しくて、料理に対する興味もわき、自分でいろいろ調べたりしていたところで出会ったのが、その後働くことになる『エル・ブリ』でした。アーティスティックな料理の写真を見て「なんだこれは!」と衝撃を受けました。料理というよりアートじゃないか、と感じました。店のシェフに「これは一体何ですか?」と聞くと「こんなの料理じゃない」とはねつけられたのですが、僕はすっかり『エル・ブリ』の料理の魅力に取り憑かれていました。それがきっかけで料理に対する意識が変わったほどです。

20歳のころ大きな衝撃を受けた『エル・ブリ』のアーティスティックな料理。

再現するのではなく、自分を表現する料理を作ろうという結論。

その後、紹介されたイタリアンレストランで働くのですが、与えられたのは意外にもサービスの仕事。表の仕事も面白かったけど、なかなか厨房に回してもらえないのでしびれを切らして「イタリアで修業してきます」と1年ほどで辞め、ローマに行きました。でもまぁ料理修業というより、フリーターの延長ですね。働いていたのもごく普通の町場のトラットリアとかリストランテでした。それでもイタリアにいる、ヨーロッパにいるというのが嬉しくて、テンションは高かったです(笑)。チップも結構もらえてお金も稼げたので、休みの日は普通のイタリア青年のように遊びに行ったり、イタリア生活を謳歌してこのままイタリア人になれるとまで思っていました。料理もどんどん面白くなってきて、おいしいものを作りたい、喜んでもらいたいという気持ちが高まりました。
2004年に帰国し、再びイタリアンレストランで腕を振るっていました。ぼちぼちイタリア料理をつくるシェフとして安定してきていたものの、料理を通じてより自分を表現したいという気持ちが昂ぶるばかりでした。
そして20代最後の時間は、世界でいちばん働きたい場所で働いてやろう、人の下で働くのはこれで最後にしようと、憧れていた『エル・ブリ』に行くことを決めました。なぜなら世界でいちばんアーティスティックな料理が生まれる場所だし、料理で人を驚かせ、感動させ、世界を少し変えたフェラン・アドリア氏に絶対に会いたかった。彼のチームの一員になって経験を積みたいと強く願ったからです。   (後編に続く)

再現するのではなく、自分を表現する料理を作ろうという結論。

新鮮な真鯛をおいしく食べる、温度にこだわる料理「真鯛の43℃」。

今回お教えする料理は、『81』らしい魚料理。夏の間、店でもお出ししていた「真鯛の43℃」という料理です。43℃という温度は、魚の生臭さを感じなくなる温度であり、たんぱく質が凝固しないギリギリの温度だと思います。言ってみれば真鯛の塩焼きなのですが、白身の魚を最もおいしく食べられる、シンプルな料理方法なので、これを覚えていただくと、今まで食べていた鯛やスズキなどの魚が、信じられないくらいおいしく食べられると思います。
「焼き蒸し」の調理方法で、魚の切り身の中央「芯」の部分が43℃になるまで火を入れるのが理想です。「芯」の部分に火はちゃんと入りますから、レアではありませんが、火が入っているという認識のギリギリの火入れになりますね。温度が43℃以下では生臭さを感じてしまうし、温度が高すぎると鯛のうまみが消え、パサつきます。おいしく焼き色がついた皮目から、芯の部分まで切り身全体に温度のグラデーションが入ることで、真鯛の風味を強く感じられる一品です。その温度のグラデーションを生む秘密は火加減と熱。加熱を止める時点ではまだ熱が伝わりきっていない状態(38~40℃)ですが、火から下ろして少し「休ませる」段階で、外から内へ熱が伝わると同時に切り身内側の水、脂の状態が落ち着き、最高の食べごろに。守って欲しいポイントは、真鯛の切り身を必ず室温に戻してから焼くこと、塩は焼く直前に振ること。塩を振ってしばらく置くと、水分とともに旨みも溶け出してしまうからです。
切り身で売っているものでも同じように作れますが、写真のようなぼこぼこした形にはなりません。できれば刺身にできるような新鮮なものを店で下してもらって、作るとよいでしょう。いろいろな要素を盛りんで、複雑な味に仕上げる料理ももちろん面白いですが、このお皿はフレッシュな真鯛をよりおいしく食べることがコンセプト。つまり素材を最大限に活かし、最短のアプローチをする。真鯛を真鯛として味わう、楽しむ、「感じる」一品です。ソースもつけ合わせも無いですが、ご家庭でもできる真鯛の調理法として僕からぜひ提案したい料理です。

真鯛の43℃

真鯛の43℃

コツ・ポイント

43℃は、魚の生臭さを感じなくなり、たんぱく質が凝固しない温度。 「焼き蒸し」で、切り身の中央「芯」の部分が43℃になるまで火を入れるのが理想です。 塩は火入れの直前に。焼き過ぎに注意。使用するワインを料理と一緒に食すと、一層美味しくいただけます。

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