ピックアップシェフ

森田 一頼 Libertable 繊細な感性と大胆な発想が息づく、ひとつひとつが愛おしいデザート。

洋菓子の世界で日本のトップになることを目標に東京、新潟、フランスで修業。

中学生のころから、クリスマスケーキを一人で手作りしていた。

僕は1978年に新潟市の北部、いまは新潟市に合併された豊栄市で生まれました。上に姉が二人いて、僕は末っ子長男。両親は人から頼られる人間になって欲しいと「一頼(かずより)」と命名したそうです。父は単身赴任が長く、不在しがちでしたので、祖母と母と姉二人と女性ばかりに囲まれて育ちました。いま思えばうちの母は、食事に関しては他の家よりもしっかり料理していたというか、朝も夜も温かい炊き立てのご飯と味噌汁と、いくつかのおかずを毎日きちんと用意してくれました。夕飯はうどんだけよ、みたいなことは一切なかったですね。子供のころはそれが普通だと思っていたけど、いまはありがたく感じます。
おやつやデザートも、よく母や姉が手作りしていたので、僕も小学生のころから手伝っていました。パンの耳を揚げて砂糖をまぶす簡単なものから大学芋やカスタードプリン、毎年クリスマスケーキまで作っていたので、母や姉を手伝いながらいろんなお菓子に挑戦していました。姉が今年は受験勉強が忙しいからクリスマスケーキは作らないという年には、中学生の僕が一人で作ったこともあります。ちゃんとスポンジから焼いて、デコレーションしてね。そんな家庭環境だったので、料理の仕事をしたいと考えるのも、ごく自然な成り行きでした。しかし料理の仕事をしたいと両親に打ち明けると、それはもう大反対されました。高校も全員が大学に行くような進学高だったので、大学までは行ってくれ、それから好きなことをやればいい、と説得されました。一応有名大学を受験はしたのですが、そんな状態なので勉強も身に入らず、不合格。来年、調理師学校に入ると必死で親を説き伏せ、入学までの1年間、新潟市内のカフェとレストランを掛け持ちしてバイトに明け暮れました。

中学生のころから、クリスマスケーキを一人で手作りしていた。

厳しい修業でパティシェとしての土台を築き、自分のケーキを作るまでに。

漠然と料理の仕事がしたいと思っていましたが、そのころから「洋菓子の世界で日本のトップになりたい」と気持ちは固まっていました。繊細なもの、華やかなものを作りたいという自分の指向もありましたし、毎日肉や魚を扱うイメージがあまりなかったんです。
上京して製菓学校に通学しながら、就職先として有名洋菓子店を見て回ったのですが、店に入った瞬間「ここしかない!」と感じたのが、吉祥寺の『レピキュリアン』でした。店の雰囲気、甘い香り、そして当時僕が好きだったクラシックなフランス菓子が並ぶケース…全てが素晴らしく、すぐに「働かせてください」とシェフの金子哲也さんにお願いしてアルバイトをさせてもらい、卒業後はそのまま就職しました。
金子さんは今の時代には珍しいタイプの職人で、仕事に関しては本当に厳しい方でした。シェフと僕2人だけで作っていた時期もありましたが、大事な仕事は決してやらせてもらえません。その代わり、毎日一流の仕事を目の当たりにし、覚えることができました。その技術はその後の仕事に繋がっていますし、妥協せずに真剣に洋菓子を向き合うシェフの真摯な姿勢には大きく影響されたと思います。
そしてフランスに渡るため、お金を貯めようと一旦実家に戻り、地元の洋菓子店『フランス菓子 LUTÉCIA』で働きました。地方都市のケーキ屋さんとはいえ、新潟では誰もが知っていて、東京の店にもひけ取らない有名店です。ここでは生菓子の全てを取り仕切る立場を任され、学んできたことと自分の感性を最大限に発揮でき、楽しかったですね。当時24、5歳でしたけど、新しい商品の開発もさせていただき、それらが商品化された時はすごく嬉しかったです。

厳しい修業でパティシェとしての土台を築き、自分のケーキを作るまでに。

自分の技術がフランスで通用すると感じ、日本人のレベルの高さを実感。

『フランス菓子 LUTÉCIA』はスタッフの研修として、東京への旅費を出してくれる制度があり、銀座の『ロオジエ』などの一流レストランや、有名パティシェの店を何軒か食べ歩きする機会に恵まれました。一流店を回るうち、フランス料理のコースの中のデザートの位置や、トータルで楽しませるわざ、そして心地よいサービスを実際に体験し、レストランでのパティシェの仕事にも、どんどん興味がわいて来ました。
そしてちょうど10年前の2004年の冬、渡仏した僕は、まずアビニョンのビストロで2か月働いた後、モンペリエの『ジャルダン デ サンス』で働きました。レストランのデザート部門で働くのは初めてでしたが、もともと興味があったし、仕事のベースは日本の洋菓子店と変わらないです。その後、ポイヤックの『コルディアン バージュ』、パリの『アストランス』という有名店の他、数軒の町場のパティスリーでも働きましたが、仕事で苦労したことは無かったですね。日本の洋菓子のレベルの高さを実感し、日本人にはフランス人に負けない技術があり、情報も豊富だと感じました。だからどこへ行っても重宝され、働きやすかったです。
とはいえ、やはりフランスの食材の力は素晴らしかった。日本との圧倒的な差を痛感しました。その世界最高峰の食材を使い、フランスで働く道もあったと思いますが、日本で認められたい、トップになる、という気持ちは揺らがなかったですね。自分の感性と技術で勝負しに行ったフランスで、全てが通用したことで、ますます自信がつきました。そして「日本のレストランで、どこにもないようなデザートを作りたい」という熱い気持ちで帰国し、幸運にも青山のレストラン『ランベリー』で、シェフパティシェとして働くことになりました。  (後編に続く)

自分の技術がフランスで通用すると感じ、日本人のレベルの高さを実感。

子供時代にいろいろ研究した思い出のデザート、プリン。

今回お教えするお菓子はプリンです。子供のころ大好きだったお菓子でもあり、母や姉たちが作るのを手伝って、一緒に卵を割ったりしていた幼いころの思い出深いデザート。そのうち自分一人でも作れるようになりました。ちゃんと分量を計測して、それなりにおいしく作っていましたよ。または市販のプリンを買ってきて、イチゴなどの季節の果物を飾って、プリン・ア・ラ・モード風にして食べたり、凍らせて食べてみたり。これをもっとおいしくできないか、といろいろアレンジすることも好きでした。凍らせて食べてもけっこうおいしいんですよ(笑)。
いま思えば子供のころの好奇心が、パティシェとしての仕事にも繋がっているというか、人間て大人になってもあんまり変わらないというか、面白いですよね。 当時家で作っていたのは、オーブンで蒸して作る、ちょっと硬めのカスタードプリンでしたけど、これは柔らかくとろける系のプリン。店で出しているなめらかな口あたりのプリン『Enfant(アンファン)』と、ほぼ同じレシピになります。ぜひご家庭で、お子さんたちの手を借りて、一緒に作っていただきたいですね。甘くて柔らかい一口は、ずっと舌の記憶に残り、また作って!とせがまれること請け合いの僕の自慢のレシピです。

アンファン(とろけるプリン)

アンファン(とろけるプリン)

コツ・ポイント

牛乳を50度にしてから卵とグラニュー糖をあわせる。 冷たいままだと牛乳と生クリームが2層に分かれてしまうことがあり、温めすぎると卵黄が固まりになってしまうので注意してください。

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