ピックアップシェフ

牧島 昭成 ピッツェリア トラットリア チェザリ 笑顔でピッツァを作り、人々を幸せにする職人でありたい。

ナポリで食べた本物のピッツァ・マルゲリータが僕の人生を好転させた。

初めてのピッツァとの出会いは実家が営む喫茶店の『ピザトースト』

僕は名古屋で生まれ育ち、ずっとこの街で飲食の仕事一筋に邁進してきました。この仕事を選んだのは僕の生い立ちとも深く関係するのですが、実家が喫茶店を営んでいたんですよ。思えば両親が営む店で食べた“ピザトースト”が、最初のピッツァとの出会いになるのかな。食パンの上にベーコンと玉ネギ、ピーマンを乗せ、熱々のチーズが溶けた喫茶店ならではメニュー。いまも懐かしく思い出します。
父はもともと和食を志した料理人でしたが、勤務先がレストラン・チェーンだったので和食、中華、洋食まで何でも作れてしまう昔のタイプの料理人でした。まだ僕が幼いころ父が独立し、母と2人で喫茶店を始めました。両親は年中無休で朝6時から夜9時まで働いていたので、店じまいを待つ僕と姉は、いつもひもじい思いをして待っていた記憶があります。
小学3年くらいになると僕も店の仕込みの手伝いをするようになり、父の隣で玉ねぎをスライスしたりしてお小遣いをもらっていました。5~6年生にもなるとオムライスやチャーハンなども作れるほどの腕前になっていました。
中学に入っても土日は部活を休んで店の手伝いをしていましたし、自分も父のように将来は飲食の仕事をしよう、と考えていました。しかし高校に入るとその考えが一転。土日も無く黙々と働く父への反発もあって、大学に入ってサラリーマンになろう、結婚して家庭を持ったら、土日は家族と一緒に過ごすお父さんになってやると。
しかし再び飲食の道に進もうと気持ちを変えたのは、当時見ていた『料理の鉄人』でした。登場する有名シェフを見て「自分もこういう料理をやりたいんだ、親父のような料理人ではなく、華やかな世界に行ってみたい」と、急激に自分の未来が開けたように感じました。高校卒業後は調理師専門学校に進学したかったのですが、学費が高く、とても両親には頼めなかったので、1年間バイトして入学金を稼ぐことにしたんです。

初めてのピッツァとの出会いは実家が営む喫茶店の『ピザトースト』

初めて訪ねたイタリアの街はナポリ。『ピッツァ・マルゲリータ』のおいしさに衝撃

アルバイト先は名古屋でとても人気のあるフランス料理店でした。面接に行って、学校に行くので働いて貯金したい、と打ち明けると「学校に行っても役に立たないから、うちで働いて料理を覚えなさい。最初はホールに入って、仕事を覚えたら厨房に行かせる」と言われ、これ幸いと社員になったんですよ。サービス担当として3年ぐらい頑張っていたところ、会社が新しくカフェを出すことになりました。
当時、東京で人気を誇っていた『オー・バカナル』のようなフランス・スタイルのカフェはまだ名古屋になかったので、ちょっと本場の店を見て勉強して来いと、20歳そこそこの僕がフランス出張に行かせてもらうことになったんです。ボルドーとパリに滞在し、『カフェ・ドゥ・マゴ』など有名カフェをたくさん見て回りました。
そして唯一イタリアで見学に行ったのが、ナポリにあった老舗カフェ『ガンブリヌス』でした。ナポリのコーヒーは特別だから見て来い、と言われるままに立ち寄ったのですが、その数年後、ナポリが僕にとって縁の深い街になるとは、まだ知る由もありません。当時のナポリは、いま以上に街を歩くとピッツェリアだらけなんですよ。ピッツァ発祥の地で食べた「ピッツァ・マルゲリータ」は衝撃的でした。生地がモチモチしていて、お餅みたいな食感。それまで食べなれていたアメリカンタイプのピッツァとは全然違うんです。それにはビックリしましたね。
帰国後、栄にオープンしたグランカフェに勤めることになった僕はいわば売れっ子ギャルソン、みたいな立場になり、お客様にも大人気でした。店は名古屋一のスタイリッシュな場所、お客さんもお洒落な人ばかり。僕もまだ22歳ですから、ちょっと勘違いしていた時期だったんですよね。オーナーとちょっとゴタゴタして辞めようと思っているとき、お客さんだったチェザリの元オーナーから、ウチに来て今の店を立て直してほしい、と誘われたんです。

初めて訪ねたイタリアの街はナポリ。『ピッツァ・マルゲリータ』のおいしさに衝撃

神の手を持つ伝説のピッツァ職人に会いにイタリアへ。

正直、悩みました。条件も良くなかったし、なんで栄のど真ん中から、大須に下らなきゃいけないんだ、って(笑)。そのときある人から「いちばん条件の悪いところへ行け。そこがお前の味方だ」と言われたんですよ。そうだ、そういう店で僕の実力を発揮すればいい、と決心し、責任者として任されたのが『チェザリ』でした。
まず始めたのが670円の食べ放題ブッフェ。ガラガラだった店があっという間に満席になり、すごく流行りました。そうすると周りの店もブッフェを始め、ウチよりいい料理を出すようになったんですよね(笑)。次は結婚式や二次会パーティを積極的受入れたことが当たって『チェザリ』は段々と軌道に乗り、隣の店(現・ソロピッツァ ナポレターナ大須本店)で新たにイタリアン・バールを始めました。しかしこちらはなかなか軌道に乗らなかった。スタッフを帰した後、僕一人で深夜営業までしてがむしゃらに頑張りましたが、なかなかうまくいかなかったんです。
そのとき思いついたのが、何か一品で勝負できるものやろう、ナポリピッツァはどうだ、というアイディアでした。子供の頃のピザトーストの思い出や、ナポリで食べた「ピッツァ・マルゲリータ」のおいしさ。さらに店にはパンを焼く設備が全部揃っているという幸運と条件がそこで全部結びついたんですよ。それからの僕は独学でピッツァを勉強し、日々黙々と生地をこね、ピッツァを焼く毎日。いま振り返れば、ピッツァに“ハマッて”しまったんですよ。そんなとき「神の手を持つピッツァ職人がいて、もうすぐ来日するらしい」という噂を聞き、いても立ってもいられず、その神の手の持ち主、ガエターノ氏に「研修させてほしい」と手紙を書いたんです。すぐにOKの返事をもらい、僕はいよいよイタリアのイスキア島にあるガエターノさんのピッツェリアに行くことになりました。  (後半に続く)

神の手を持つ伝説のピッツァ職人に会いにイタリアへ。

バジルではなく、玉ねぎのパスタ『パッケリ アッラ ジェノベーゼ』。

今回お教えする『パッケリ アッラ ジェノベーゼ』というパスタを初めて食べたのは、イタリアで修業し始めたころです。休日のたびに働いていたイスキア島から高速船に乗り、一人でナポリまで遊びに行っていたんです。ナポリでピッツァを食べた後、何かさっぱりしたものが食べたくなり、注文したのが「パッケリ アッラ ジェノベーゼ」でした。しかし出てきたものは緑ではなく茶色いパスタ。店の人が間違えて持ってきたと思い、「これじゃないよ」というと「これがジェノベーゼだ」と言うんです。ちゃんと話を聞いてくれないし、変なモノ出されるし、嫌だなぁと思いながら帰宅しました。師匠のガエターノさんにこんなことがあった、と報告すると、「それはジェノベーゼだ、間違ってないよ」と。なんとイタリアでもナポリだけ玉ねぎと肉のソースを「ジェノベーゼ」と呼ぶそうで、びっくりしました。その由来には諸説あるみたいですが、貧しさの象徴である食材・玉ねぎに安い肉や魚をプラスするだけで、プリモとセコンドを兼ねる一皿ができてしまうなんて、まるでケチんぼうのジェノバ人みたいだ、という由来にまつわる話がいちばん好きかな(笑)。
玉ねぎと煮込むのは豚でも牛でも鶏肉でも魚類でも構いません。僕はマグロ入りのバージョンがマイブームです。応用編としてかたまり肉を使って煮込み料理にしてもおいしいですよ。その場合、肉が250gなら玉ねぎは500~750gと2倍から3倍の量を用意してください。玉ねぎを下に敷いて肉をのせて鍋に蓋をしてじっくり煮込み、肉のうまみを玉ねぎにうつすこと。その玉ねぎだけで作る「パッケリ アッラ ジェノベーゼ」が格別のおいしさになるんです。肉はメイン料理として出せば、豪華な二皿の完成です。

玉ねぎと豚肉のパスタ(パッケリ アッラ ジェノベーゼ)

玉ねぎと豚肉のパスタ(パッケリ アッラ ジェノベーゼ)

コツ・ポイント

ナポリ地方で玉ねぎと肉のソースを「ジェノベーゼ」と呼びます。玉ねぎに肉や魚をプラスしたプリモとセコンドを兼ねた一皿。 豚肉と玉ねぎをしっかり焼き色がつくまで炒める事で、旨味と甘みがうまれます。 材料は肉、魚介なら何でもOKですが、旨味を玉ねぎに移すことがおいしさのポイントです。

レシピを見る

  • facebookにシェア
  • ツイートする
  • はてなブックマークに追加
  • 文:
  • 写真: