ピックアップシェフ

村田 明彦 鈴なり 畑を耕しながら隣で料理を出す、そんな店をいつかやりたい。

幼いころから見ていた祖父の仕事に憧れて和食の道へ。

下町のふぐ料理店でポン酢やきんとん作りを手伝っていた子供時代。

生まれは東京の下町、門前仲町です。家族は両親と兄妹3人の5人家族。父はサラリーマンでしたが祖父が近所でふぐ料理店『幸月』を営み、母が毎日手伝いに行っていたので、飲食店は身近な存在でした。毎年ふぐ料理に欠かせないポン酢を、1年分まとめて仕込むのですが、小学生の頃から季節になると、200キロほど店に届く橙の実を兄や従兄弟たちと一緒に大量に絞り、たくさんお小遣いをもらっていました。また年末には、お客さんにお節の詰め合わせを差し上げるので、サツマイモを裏ごしして、たくさんのきんとんを作ったのも楽しい思い出です。
高校に入ってからは、放課後そのまま店に行き、本格的にアルバイトをしていました、ちょうど当時はバブルの真っ最中で、とにかく毎晩忙しかったんです。大広間だけでも60人位の宴会がほぼ毎日入っていたので、親戚総出で手伝い、中居さんも5人ぐらいいたかな。アルバイト代をもらったうえに、祖母にお小遣いももらい、さらにお客様が高校生の僕にまでチップをくれたりね。すごい時代でした。就職した当時よりも、このころのほうがたくさんお金を持っていましたよ(笑)。調理場の仕事も楽しかったし、いつしか高校を出たら祖父の下で料理の修業をして、自分が『幸月』を継ごうと決めていました。しかし祖父と当時の『なだ万本店 山茶花荘』の料理長・田中博敏さんが知り合いだったらしく、祖父は高校を卒業したらオレが『なだ万』で修業するという話を、いつの間にか決めていたんです。

下町のふぐ料理店でポン酢やきんとん作りを手伝っていた子供時代。

18歳で老舗の日本料理店に就職。生意気な性格が叩き直された。

祖父の店で働くという計画が一転し、有名な老舗日本料理店の本店に入ることになったのですが、緊張するどころかワクワクしていました。というのも料理人の世界の厳しさとか、上下関係について全く知らなかったからです。飲食店で働いていたとはいえ、身内の店ですから遊びたいときは行かなかったり、まぁ、ぬるい環境だったんですね。それが自宅を出て寮に入り、毎日始発で出勤し、帰りは終電ギリギリまで、という180度違う生活が始まりました。しかも仕事場ではいちばんの下っ端。それまで人に指図されることがあまりなかったので、新人らしい「お願いします」という意識が全くなくて、とにかく生意気で扱いにくい存在だったと思います。一度、先輩に言われた言葉でケンカになり、それ以降、誰も口をきいてくれなくなりました。いま思えば、絶対にありえないことですが、やっちゃったんですよ(笑)。そのときは謝って許してもらいましたけど、その後も何度か、ね(笑)。でもおかげで自分のダメな部分を教えてもらい、仕事や仕事場の人間関係を軽く考えていた態度は徐々に改善されました。
そのころは「イヤになったらじいさんの店に行けばいい」という逃げ場はありましたが、でも辞めなかった。2年働けば調理師免許が取れるので必死で我慢し、免許を取った後はふぐ調理師の免許も取得しました。その頃になると先輩たちが先に辞めてしまい、任される仕事がどんどん増えてきて、料理が面白くなってきたんですよ。ようやく自分にチャンスが回って来たという思いで働いていました。

18歳で老舗の日本料理店に就職。生意気な性格が叩き直された。

「なだ万」で過ごした13年で料理人としての基本を全て身につけた。

ご存知のように『なだ万本店 山茶花荘』は、日本でも1、2を争う老舗割烹店でした。顧客は名前も明かせないようなすごい方がほとんどで、政治家の方や海外のVIPも多くいらしゃいます。入社当時は洗い場と言えど、お客様が使う食器すら洗わせてもらえませんし、食材にも触れられません。最初の料理修業もまかないでした。とはいえ先輩の助手の助手と言う立場です。。食材を絶対に捨てるなと教えられているので、余った大根で味噌汁を作り、皮は炒めてきんぴらにしたり。わさびやショウガなども無駄なくおろすよう教えられ、食材を大事にする感覚を叩き込まれていきました。入社から5年間、田中博敏料理長のもとで働きましたが、自分の全ての料理の基本は師匠から教わったものだと思います。目も見られないほどの存在の方ですので、手とり足とり教えくれるわけではないんです。怒鳴られたり、叱られたりしたこともありません。しかし「こうしておかないとダメなんだ」という料理の感覚がいつのまにか身についていたんですね。料理のテクニックではなく、物を大事にするとか、人として基本的なことです。当時厨房にいた料理人はみんな、そういう師匠の影響を少なからず受けていたと感じます。
先輩の仕事を分捕る勢いで仕事をし、料理がどんどん面白くなってきたころ、祖父の店を継ぐのではなく、自分で店をやりたいと思うようになりました。10年で『なだ万』の修業を仕上げ、30歳までに自分お店を持とうと決め、28歳のときの当時の黒田廣昭料理長に「独立したいので上がりたい」とお願いしました。しかし料理長に「支店で勉強してきなさい」と言われ、三番手で支店に移りました。自分の計画は変わってしまいましたが、支店で働いた3年間はすごく楽しかったですね。昼夜の献立も書かせてもらっていたし、パーティの献立も何度もやらせてもらいました。そこで得た経験と『なだ万』で鍛えられた13年間は、独立への大きな自信になり、いまも自分の基本になっています。 (後編へ続く)

「なだ万」で過ごした13年で料理人としての基本を全て身につけた。

数えきれないほど食べた母の得意料理『サバの竜田揚げ』。

今回お教えするのは、自称・料理上手という母の手料理『サバの竜田揚げ』です。店で余ったサバをもらってくると夕飯のおかずは、決まってこれ、でした(笑)。弁当にも入れるので、一見、鶏の唐揚げか!と喜ぶんですが食べるといつもサバだったという(笑)。友達が食べている鶏の唐揚げがうらやましかったです。でもいまとなってみれば懐かしくて、ごはんに合うおいしいおかずなんですよ。
サバは調味料に漬け込まずに、ちょっとぜいたくですが醤油で洗うように味をなじませてください。しょうがはたっぷり入れたほうがよりおいしくなります。粉は片栗粉のみで揚げます。「竜田揚げ」の語源になったのは京都の竜田川という説があるんですが、紅葉の季節に竜田川に色とりどりの落葉が流れる様からきたとか。片栗粉で揚げると、白い粉が吹いたようになるので、より竜田川っぽいように思います。揚げ方ですが高温でうっすら色づくまで揚げて、一旦鍋から取り出し、少しおいてから再び高温でさっと二度揚げしてください。ほどよくキツネ色になったらできあがりです。魚は肉より時間が短く揚がりますので、熱し過ぎないように注意してください。竜田揚げは青魚に合う調理法ですので、アジやイワシ、サンマでもおいしくできますよ。揚げたてアツアツを召し上がってください。

サバの竜田揚げ

サバの竜田揚げ

コツ・ポイント

漬けこまないですぐに揚げるので、醤油で洗うようにしながらしっかりと味をなじませる。 たっぷりの高温の油で二度揚げする。火から上げた間にも火が通っているので、二度目は約1分ぐらいの短時間でカラリと揚げましょう。

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