ピックアップシェフ

武田 健志 Liberte a Table de Takeda 固定観念に囚われないLiberte(自由)な料理で楽しませたい。

自由な感性を発揮して日本人らしいフランス料理を。

クッキー作りから料理に目覚め、高校生で料理学校の優等生に。

神奈川県茅ヶ崎市で生まれ、1歳で横浜の港南台に引っ越して育ったので、まぁ、ハマっ子ですね。父はサラリーマンだったので、全く飲食業とは関係ない家庭でした。親戚に料理好きな叔母がいて、ときどき自分で焼いたクッキーなど、手作りのお菓子を持ってきてくれたのですが、中学生の頃、そのクッキーがよほどおいしかったのか、自分でも作り方を真似して焼いていたみたいです。みたい、というのは、ほとんどそのクッキーの記憶がないんですよ(笑)。でも、それが料理人になりたい、と思った私の原点でした。高校には進学しないで、中学校を卒業したら「料理の専門学校に行きたい」と言い始めたのですが、両親に説得されて断念し、結局専門学校には高校卒業後に進学しました。それでも諦めきれなかったので、高校に通いながら、クッキングスクールに入って料理を勉強し、近所のレストランでアルバイトもしていたんですよ。町のクッキングスクールですから、生徒は料理好きな奥さんとか花嫁修業の女性ばかり。その中にひとり男子高校生が混じっていたわけで(笑)。でも料理にかけては、むしろ私のほうが上手に、きれいに仕上げていた気がします。
高校卒業後は希望通りに調理師専門学校に入学し、都内の学校まで1年間通いました。入学当時はどのジャンルの料理の道に進むかは、まだ決めていなかったと思います。通いながら洋食がいいかな、と漠然と考えていたくらいでしたね。在学中に生徒全員がそれぞれ卒業作品を作り、審査されるのですが、1人か2人しかいただけない最優秀賞をもらったので、まぁまぁ真面目に頑張っていたと思います。卒業前、そろそろ進路を決める時期に、先生から「履歴書を持って『Hotel de Mikuni(オテル・ドゥ・ミクニ)』へ行って来い」と言われました。言われるままに訪ねたら、なんと、いきなり入社面接が始まったんですよ。

クッキー作りから料理に目覚め、高校生で料理学校の優等生に。

『オテル・ドゥ・ミクニ』と『レストランひらまつ』で経験を積み、25歳で渡仏。

心の準備も全くなく受けた面接ですが、幸いにも合格し、株式会社ソシエテミクニに入社しました。実は、面接を受けるまでは三國シェフのことも『オテル・ドゥ・ミクニ』も全く知りませんでした。入社が決まってからいろいろ調べて、すごいレストランだ、と知ったのです。配属されたのは四谷の『オテル・ドゥ・ミクニ』本店。大きな店ですので、当時もスタッフは40人以上いたかな。しかし厨房には入れず、新人は必ず1年はサービスをやらされます。2年目にいよいよ厨房へ、というときに、本店ではなく、市ヶ谷にあった姉妹店のビストロ(現在は閉店)へ移ることになりました。厨房は私を入れても3人だけ。でも、休む暇も無いほど忙しい店でした。店ではワゴン・デセールをやっていたので、移ってすぐにデセールを担当しました。毎日8種類ぐらいのデセールを作ります。最初こそ教えてもらいましたが、2か月目からは自分1人で全部作っていました。本店ではなく、支店で料理人としてスタートしたのは、いま思えば幸運だったのかもしれません。本店はとにかく仕事が厳しくて、容赦ないプレッシャーがあるので、同期で入った20人は、翌年には半分以下になっていました。私も本店にいたら、つぶれていたかもしれないです。その後は横浜の支店『ミクニヨコハマ』で働き、約4年間お世話になって退社しました。辞めた理由は、お金を貯めたい、ですね。その頃はもうフランスに行きたい気持ちが高まっていたので、とにかく早くお金を稼ぎたかったんです。
アルバイトをしていたとき、『レストランひらまつ』の方と知り合い、うちに来ないかと声をかけていただき、入社できたのは幸運でした。24歳のときです。広尾の『レストランひらまつ』に入り、その後代官山の『シンポジオン』で合わせて2年ほど働き、フランスへ渡りました。しかしどこのレストランで働くのかは、全く決まっていない状況でフランスへ行ってしまいました。

『オテル・ドゥ・ミクニ』と『レストランひらまつ』で経験を積み、25歳で渡仏。

フランス料理はもっと自由でいい、ということを学んだ2年間のフランス修業。

ツテもコネもほとんど無いのにフランス行きを決めたのは、行けばどうにかなるだろう、という私の楽観的な性格だったかと思います。それと幸運にも、その年からワーキングホリデーが始まっていて、ビザがもらえたのも大きなメリットでした。以前の職場で一緒に働いていた北欧出身の料理人に「ヨーロッパに来るなら連絡して」と言われていたので、彼に頼んで3軒の店を紹介してもらい、手紙を書き、返事を待たずにフランスへ行きました。最初の1カ月は飛び込みで「働かせて欲しい」とのレストランに売り込みもしましたが、うまく行かず・・・そんなとき『トロワグロ』から、面接に来い、と返事が来たんです。それはもう嬉しかったですね、いちばん働きたかった店でしたから。
ロアンヌ地方の3つ星レストラン『トロワグロ』は、とにかく忙しい店でした。週末には100人を超えるお客さんは来る店ですからね。最初は圧倒されるがままに与えられた仕事を淡々とこなしていました。その後はパリに移って『ラルドワーズ』、『レ・ベアティーユ』と、3軒の有名レストランで2年間働きました。その経験を通して、フランス料理に対する考え方は大きく変わったわけではないんですが、ひとつ学んだのは、料理とは自由でいいんだ、ということに尽きます。『ラルドワーズ』、『レ・ベアティーユ』両店のシェフも料理はクラシックですが、発想が自由で遊び心があり、固定観念に囚われずに、素晴らしい料理を作っていました。私が行った時期が、ちょうどそういう時代の幕開けだったことも大きいかもしれません。2年間の修業を通じて、フランス料理の自由な感性を理解できたのは、いまの自分に大きな影響を与えてくれたと思います。そのまま帰国しないでフランスで働いていたら、もっと学べたかもしれないし、違った感性を身につけたかもしれないですが、やっぱり私は日本で料理を作りたかったんです。それで帰国することを決めました。  (後編に続く)

フランス料理はもっと自由でいい、ということを学んだ2年間のフランス修業。

おいしいソースでいただくフランススタイルのビーフステーキ。

今回お教えするのは、「牛ロースステーキ ベアルネーズソース」。ビストロ料理では定番中の定番でもある牛ロースのステーキにポテトを添えたものです。これはフランス人が最も好む料理ですし、私自身も大好きです。通常はフレンチフライを添えますが、この太いポテトフライのほうが私は好きなんですよね。味の決め手は、フランス料理の基本のソース、ベアルネーズソースのおいしさです。アメリカ風のステーキならグレービーソースですが、フランス式ならばこのソース。肉にもジャガイモにも合うおいしいソースです。手間はかかりますが、ぜひチャレンジして作り方を覚えてください。肝心なのは、卵黄と澄ましバターに空気を含ませながら根気よく混ぜること。これは湯煎で行います。火が強すぎるとソースが分離してしまい、もう直せませんので、じっくりミックスしてください。イメージは温かいマヨネーズですね。ソースがマヨネーズほどの固さになったら、完成です。
そして今回は大きなサーロインを使っています。ごちそう感が出て、ご家族に喜ばれると思いますよ。ポイントは焼く1時間ほど前から肉を常温に戻してから、火にかけてください。全ての側面をフライパンにあてながら、じっくり焼き、休ませます。休ませる時間は肉を焼いた時間と同じぐらいが目安。そうすると中の肉汁が全体に行きわたり、味が落ち着きます。そうすると切り分けても肉汁がこぼれないし、しっとりとジューシーステーキになります。温かい「ベアルネーズソース」をたっぷりつけて召し上がってください。

牛ロースステーキ ベアルネーズソース

牛ロースステーキ ベアルネーズソース

コツ・ポイント

卵黄と澄ましバターを混ぜる時は、直火でなく必ず湯せんしながら。温度が高過ぎるとソースが分離してしまい、失敗します。 丁寧に空気を混ぜるようにマヨネーズほどの固さになるまで混ぜましょう。 肉は焼く前に常温に戻し、焼きあがった後は肉汁が落ち着くまで十分に休ませてください。

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