ピックアップシェフ

前田 慎也 コラージュ(コンラッド東京) 東京の食文化を牽引する役割を担いたい。

24歳で決めた料理の道。遠回りした経験が今に繋がっている。

大学受験に挫折し、20歳で海外へ。そこから全てが始まった。

僕は京都・山科で生まれ、20歳で初めて海外に出るまでは、ずっと京都で暮らしていました。いまも元気に働く父は、呉服の卸問屋。卸問屋とは着物の問屋さんを相手に商売するところで、カッコよく言えば着物のデザイナー、でしょうか。着物の柄や色の流行を読み、季節に合わせ、様々な分野の職人さんに仕事を発注し、着物を商品化させる仕事です。そして母親は茶道と華道の師範を努めており、和の伝統文化は幼いころからいやおうなしに身近なものでした。母は「茶道や華道のように“道”がつくものは全て修業なので、生半可な気持ちでやってはいけない」と、いまも口癖のように言っています。とはいえ、僕も茶道を習ったものの、お点前の基本ぐらいで止めてしまった不肖の弟子、ですが(笑)。
一生懸命真面目に働く両親からすれば、思春期の僕は言うことを聞かない、反抗的な息子でした。親だけでなく、世の中の全てに反抗しているような、生意気でひねくれた高校生。結局、大学受験にも失敗してしまい、浪人生活を送るのですが、受験勉強よりもアルバイトに精を出していました。まぁ、当時の僕は将来が全く見えていなかったというか、やりたいことすら分からなかったんです。 昼間は完全歩合制で英会話の教材を売る営業をやり、夜11時から朝までは佐川急便本社で伝票を入力する仕事を掛け持ちでやっていました。そうやって貯まったお金で証券会社数社でファンドを買い、うまいことお金も貯まったんですよ。大学受験もほぼ諦めていたので、このお金をどうしようと考えたとき、家族で僕ひとりだけ、飛行機に乗ったことがなかったので、海外に行ってみようと思い、オーストラリアのワーキングホリデーに応募しました。生まれて初めて飛行機に乗り、初めて海外に行って、初めて一人暮らしをする、それをセットでやってみようと思ったのが、外国に出るきっかけでした。そのときは1年間だけのつもりだったので、その後10年以上も海外暮らしになるとは、全く予想もつかないことでした。

大学受験に挫折し、20歳で海外へ。そこから全てが始まった。

オーストラリアで料理の面白さにどんどんはまっていった。

シドニーには貯金のうち50万円だけを持ち、この50万以外は使わない、足りなくなったら働くと決めていましたが、見事に2か月半で無くなりました(笑)。授業料とアパート代、家具を買ったらほとんど使い切ってしまったのです。食べ物も買えなくなり、パン屋の店先に袋詰めしておいてある売れ残りのパンを食べたこともあります。当初は現地の有名日本企業で働こうと思い、何社も面接に行きましたが見事全て断られ・・・。そうなると飲食業のバイトしかありません。仕方なく、まだオープンしたばかりの回転寿司屋で皿洗いとして働くことになりました。
その寿司屋は当時“南半球初の回転寿司店”という触れ込みで、連日行列ができるほどの人気店。しかも香港人のオーナーが本物志向で、銀座の名店で修業された方など、優秀な職人さんを日本からたくさん招いていたんです。その店で皿洗いや仕込みの手伝いをしながら、料理人さんの仕事を見ると、やっぱり素晴らしいんですよ。それで僕の負けず嫌いな性格に火が付き、皿洗いで一番になりたいとか、魚の掃除、料理人が魚をさばく前に鱗や内臓をきれいに取っておく仕事ですが、これだけは誰にも負けないとか、料理の仕事にどんどんハマッていってしまったんですよ。あれもこれもやらせて欲しいと、どんどん仕事を増やし、最終的には寿司飯を握るところまでやらせてもらいました。すると僕の仕事ぶりを認めてくださったのか、独立する料理人さんが「うちで働かないか」と誘ってくださったんです。その方が吉井隆一さん。いまやシドニーで最も人気のある日本料理店『YOSHII』の料理長です。店にはかの有名な『TETSUYA‘S』の和久田哲也さんなど現地の多くの有名シェフが訪れ、吉井さんも漫画『美味しんぼ』に登場しています。僕も一生懸命働き、ワーキングホリデーのビザが切れる頃、吉井さんに「ビジネスビザを取るから続けて働いて欲しい」とありがたいお言葉もいただきました。しかし「ビザを取ってもらってまで料理人をやりたいか」と考えると、正直、悩んでしまったんですよ。それでビザの話はお断りし、帰国することを決めました。実は1年シドニーにいたものの、ずっと日本人の中にいたので、ほとんど英語が喋れなかったんです(笑)。それが悔しかったので、残りの貯金を全部持って、今度はロンドンに渡りました。まずは語学学校に入り、真面目に英語を勉強してビジネススクールに入学しました。

オーストラリアで料理の面白さにどんどんはまっていった。

ついに料理人になる決心をし、ロンドンにあるフレンチの名店へ。

昼間は学校へ行き、夜のアルバイトとして始めたのが、メイフェアにある日本料理と寿司の『KIKU』レストラン。今も親交が続いている料理長さんは京都の名店で修業された方。包丁の研ぎ方から教えてもらい、やさいの切り方、むき方まで練習しました。そうなると昔は「おいしい」と食べるだけだった日本料理の奥深さ、豊かさに触れ、自分の未熟な技術が悔しくて・・・。そうなるとまた夜中に残ったり、朝早く来て練習したり、再び勉強よりも料理の方に傾いてしまったんです。そのころから「自分は料理人になるかもしれない」とやっと思い始めました。24歳のときです。
当時の僕はミシュランガイドにどこそこが乗載ったとか、イギリスにもフレンチの店があるとか、ゴードン・ラムゼイという料理人が注目されているらしいとか、料理に関するニュースにも興味を持つようになっていました。ロンドンにいるんだから西洋料理を学ぼうと思い、ミシュランで星のついた店20軒ほどに履歴書を送りました。そして10数軒でトライアルをさせてもらい、入ったのが1つ星のフランス料理店『The Canteen』。どうして選んだかというと、スタッフが優しかったからです(笑)。その頃の僕はイタリアンパセリとコリアンダーの区別もつかない素人。和食の技術はあるとはいえ、知らないことが多すぎました。丁寧にきちんと教えてくれるのはありがたかったですね。お世話になった同僚の2人とはいまも親友です。その後『The Canteen』が売却され、別の店に移る際も3人一緒に働ける店を探したほどです。その店『Soho House』ではパン、デザート、前菜そしてメインまで全ての部門を回り、部門シェフまで任されるようになりました。ビザが切れる前に、今度はNYで働こうと思い、またトライアルをして働く店を決め、ロンドンの生活を引き払って、一旦京都に戻りました。3日後にNYに出発するという夜、スーツケ-スを詰めていたら、母が「あんた、ホントにNYに行くの」と、おかしなことを言うんです。茶の間に降りてテレビを見たら、目に飛び込んできたのはワールドトレードセンターに飛行機が突っ込む、衝撃的な映像でした。 (後半に続く)

ついに料理人になる決心をし、ロンドンにあるフレンチの名店へ。

旬の豆のおいしさがダブルで味わえる『グリーンピースとミントの冷製スープ』。

グリーンピースといえば、チャーハンやシューマイに添え物として入っているような存在で、あまり人気のない食材です。僕も好きじゃなかったので、母が春になると豆ご飯を炊いてくれましたが、おいしいと感じたことはなかったですね。でもイギリスに住み、いろんな豆料理を食べるようになり、なんでこんなにおいしいのか、と衝撃を受けた食材でもあります。ヨーロッパの豆料理は、さっと湯がいて色止めしたり、食感のある状態で食べるものが多いんですよね。そうすると噛みしめるときに豆の自然の甘みと緑の香りが味わえるんですよ。逆に日本では火を通し過ぎるので、豆の甘みが消えて臭みが出てしまう。それがおいしくない原因だと思います。
グリーンピースのきれいな色、本来のおいしさを損なわないように料理するには、相当ていねいな仕事をしないとうまくいきません。そこをぜひご家庭でチャレンジして欲しいと思います。うまく作れば、いままでの豆料理とは違った、感動的なおいしさが味わえますよ。調理のポイントは、きれいな色を生かす色止めと、茹で加減です。浮きみにする豆は歯ごたえを残して加熱し、スープにする方は柔らかく茹でます。すぐに氷水でミキサーにかけますが、この温度が大事。きれいな緑色を楽しむコツです。『コラージュ』では、春になると必ず豆料理をお出ししています。冷製スープやピュレ―、ガルニチュールなどで、豆をおいしく食べていただきたいと思い、毎シーズン工夫を凝らしています。

グリーンピースとミントの冷製スープ

グリーンピースとミントの冷製スープ

コツ・ポイント

グリーンピースはさっと湯がいた後、一度氷水に落とし色止めをしましょう。 二度目に茹でるときは、スープ用はやわらかく、浮きみ用は歯応えを残すこと。 刻んだベルギー・エシャロットを炒める際は、白さをキープするように火加減に注意して加熱してください。

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