ピックアップシェフ

石塚 規 日本料理いしづか 情熱溢れる生産者直送の食材を、最高の仕立てで食べて欲しい。

先輩を追い抜いて上を目指し、早く自分の料理で勝負したかった。

夢は和食の料理人。小学生の頃からすき焼きの味つけをしていた。

祖父も父も和食の料理人でしたので、私で3代目になります。祖父は上野で旅館と日本橋で料理屋を営んでおり、厨房に立っておりました。父は日本橋の店で修業したのち、勤めの料理人として私たち家族を養い、60歳前ぐらいに自分の店を持ち、体を壊して引退するまで働きました。そういう環境で育ったので、小さいころから料理をするのが好きでした。小学校5年生ぐらいには、もう自分も料理の道に進むと決めていましたね。それまではドラマ『西部警察』に憧れて、刑事になると思っていたんですが(笑)、やはり祖父と父に背中を押されて、この道に進んだのかなと思います。
家庭では父が料理をすることはあまりなく、料理上手な母が毎日おいしいご飯を作ってくれました。小学生の頃から母を手伝い、すき焼きの味つけも任されていたんです。だから家庭科の調理実習が楽しみでした。もちろん女子よりも上手においしく作っていましたね。中学生になると、自分の料理を誰かに食べさせたくて、両親が留守の日に、友達を家に10人ぐらい招き、得意のすき焼きやチャーハン、餃子、肉じゃがなんかを作って振るまっていました。姉がひとりいるんですが、当時高校生だった姉のボーイフレンドのために、お弁当を作ってあげていたこともあります。ちゃんとお金をもらってね(笑)。
高校の志望校を決める時期には、迷うことなく高校の調理科に入学して、和食の料理人になる、と決めていました。なぜ和食なのかと言えば、「きれいな料理」だから、です。父には「大変な仕事だぞ」と言われましたけど、当時は料理人になるには、和食がいちばん手っ取り早い方法だと信じていたんですよね。それに志望校が、小学校から続けていたバスケットボールの強豪校でもあったので、その高校に進めば料理もバスケットも楽しくできる、としか考えず・・・。まだ15歳でしたからね。この世界の大変さを知るのは、まだまだ先の話です。

夢は和食の料理人。小学生の頃からすき焼きの味つけをしていた。

バスケットボールも料理修業も役割は司令塔。

部活と料理の実習に邁進していた高校時代。県大会でベスト4の成績を収めたバスケットのチームで、私は“ポイントガード”として活躍しました。チームの司令塔の役割なので、常に回りを見稿し見渡しながら支持を出す役割。そのポジションが大好きだったし、自分の性格にも合っていました。言ってしまえばおせっかい役なんですけど、仕切っていないとつまらない。人の土俵で指示される側より、自分で段取りを組んで、指示を出して回りを動かすのが好きなんです。それはいまも変わってないと思います。だから料理の修業に入ったときも、下っ端の時代から早く指示を出せる立場になりたくてしょうがなかったですね(笑)。
卒業後は紀尾井町の料亭『福田家』に入りました。顧客は総理大臣を筆頭に政治家や大企業の偉い方々ばかり。または国賓が来日すると、迎賓館で出張料理を任されるような高級店です。私は高校の調理科の10期生でしたが、開校以来初めて「ウチに来てほしい」、と店側から乞われた生徒でした。高校では優秀な生徒でも、新入りですから、洗い場、店の掃除、師匠の着替えの手伝いに先輩たちの下準備・・・と朝6時から夜中まで休む暇もありません。住み込みだったので、寮の掃除や洗濯も自分の仕事です。でも不思議と辛いと思ったことはないですね。バスケットの合宿で朝から夜中の2時まで練習、という厳しい経験を何度もしてきたので、案外平気でした。いちばん苦労したのは食材の管理かな。野菜や魚などの食材を、何がどこにおいてある、と全て把握する役割だったので、それを覚えるのが大変でした。店に入って3年目、21歳のときに「焼き場」の担当になりました。通常は24、5歳の人が入るポジションなので早かったんです。2歳上の先輩を抜いた抜擢だったので、それまで~さんと呼んでいた先輩を、その日から~君と呼ばなくてなりません。福田家を辞めるころには4歳上の先輩も抜いて3番手になっていました。かつてはこういう習慣があったんですが、今の時代にはもう無いでしょうね。日本料理の厳しい修業を経験した最後の世代だと思います。

バスケットボールも料理修業も役割は司令塔。

スタイルの違う名店で働き、双方のいいところを吸収。

『福田家』には18歳から29歳までお世話になりました。27歳ごろから師匠には「他の店で働いてスキルアップしたい。いい店があったら紹介してほしい」と話はしていましたが、その1年後まで「まだ辞めるなよ」と言われ(笑)、まぁ、私を手放したくないと思ってくださり、それはありがたかったのですが、やっと「こんな話があるが、お前どうだ」と紹介されたのが『分とく山』でした。
料亭の『福田家』では調理場から女中さんが料理を運びますが、『分とく山』はカウンター割烹。だしのひき方から味つけまで違いますし、全くスタイルが異なる和食店です。それまではほとんどお客様と接する機会が無かったので、最初は自分で料理を出すことに緊張しました。料理の説明もしどろもどろだったと思います(笑)。料理の味つけも、最初は『分とく山』風を意識したのですが、早い段階で先輩から「自分がおいしいと思う味でいいんだよ」と言われ、そこから味のブレが無くなり自信をもってお出しするようになったと思います。考えてみれば、全くスタイルの異なる店を2軒経験できるということは、ダブルでいいとこ取りできるといことですからね。両方の店で積み重ねたものが、自分自身の財産となり、私の店『いしづか』にも生かされているので、本当にいい経験をさせていただいたと思います。
『分とく山』では料理だけでなく接客やカウンターさばき、料理の出し方など厨房では学べない様々なことを身につけました。働きながら、休日には茶道の稽古にも通っていましたので、お茶の心やお作法も身につけていきました。まだ30代前半でしたけど、全てのことを一人で責任を持ってできるようになっていたので、次の店では料理長として迎えてくれる店で仕事をしたいと思うようになっていました。  (後編に続く)

スタイルの違う名店で働き、双方のいいところを吸収。

わが家のおふくろの味『肉じゃが』。

今回お教えするのは石塚家風『肉じゃが』。これを食べて大きくなったと言えるほどの我が家の定番おかずです。母が作る肉じゃがはもっと味が濃いのですが、これは少し上品な味つけにしています。
『福田家』での修業時代の3年目、焼き場の担当になり、師匠の牧内淳治さんのまかないも担当していました。私たち弟子たちが食べるまかないより、少しいいものをお作りするのですが、ある日、この肉じゃがをお出ししたんです。そしたら食べ終わった途端、師匠が血相を変えて調理場にやってきて「誰が作った!」と叫んだんです。カンカンに怒っているように見えたので、なにか失敗したかと思ってビビっていたら、「こんなうまいものを作ったのは、お前か!」と仰るんです(笑)。驚くやら、嬉しいやら。「肉じゃがの免許皆伝だ」と。ありがたいお墨付きを戴いた思い出の料理でもあるんです。
おいしく仕上げるコツは火力。強火で煮立てながら15分ぐらいで仕上げます。じゃがいもに火が通り、回りがくずれるぐらいがいちばんおいしいでしょう。

肉じゃが

肉じゃが

コツ・ポイント

火加減がポイント。食材を炒めるところから強火で、出汁を入れたあと、沸騰しても火を弱めないで強火で一気に煮込んで仕上げる。 食材を炒めたら、ひたひたの出汁を入れる。出汁の量が多いときは500ccよりも控えめで良い。 じゃがいもの角がくずれる寸前がおいしい。

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