ピックアップシェフ

山下 敦司 AIX:S(エックス) 感動とサプライズを与える 美しいフランス料理を作り続けたい。

自分の能力と意欲を真摯に売り込み、フランスで経験を重ねた。

食品関係で働くファミリーの中で育ち、小学生から中華料理に親しむ。

僕は千葉県の船橋市に生まれ育ちました。祖父は愛媛県・宇和島の漁師でしたが、七人兄弟の三男だった父は、長兄である僕の叔父が船橋に興した『山下食品』、主に餃子を製造する食品会社ですが、そこで働き、母も会社を手伝っていました。そして日本洋菓子協会連合会の常務理事であり、大阪府洋菓子協会会長を努めていた父の次兄、山下謙二郎が大阪で欧風菓子の店『ケンテル』を営んでいたので、実家も親戚も食品関係に携わるという環境でした。
僕が子供の頃は両親ともに忙しく、兄弟3人だけで過ごすことも多かったですね。母が遅くなる時は、テーブルの上に手紙とお金が置いてあり、好きなものを頼んで食べなさい、ということが時々あったんですけど、それがすごく嬉しくてね。いつもきまって近所の中華料理店から出前を取るのですが、たくさんのメニューの中から自分の好きなものを頼んで食べるのが嬉しかったんですよ。中華屋のおじさんとも仲良しで、レバニラ炒めはどうやって作るの?とか教えてもらって、そのうち自分でもフライパンを持って、豚肉と野菜の炒め物なんかを作るようになりました。餃子はいつも家にあったので、餃子の焼き方は小学生にしては、かなりの腕前だったと思います。料理が楽しくて、もうそのころから将来は料理人になろうと、決めていたと思います。
高校卒業後は、目標通り服部栄養専門学校に進学しました。家族にもすごく喜ばれました。最初は中華料理に進もうと思っていたので、とくに中華料理の授業は熱心に受けていました。そのせいで中華料理の成績は、なかなか良かったですね。しかし、西洋料理の先生方のキリッとした服装を見て、中華料理よりもカッコいいなぁ、と思ってしまったんですよ。今思えばミーハー以外の何物でもないのですが、自分はこっちだ!と思って(笑)。

食品関係で働くファミリーの中で育ち、小学生から中華料理に親しむ。

厳しかったが、修業するにはいい時代だった。

専門学校在学中、いくつかのレストランに授業の一環として研修に行きました。その1つに『フランス料理 銀座 清月堂』がありました。その時知ったのですが、大阪の叔父が若いころ修業したのが『清月堂』の洋菓子部門だったらしく、そんな縁もあり、卒業後に入社することになりました。同期入社は僕を入れて15人。しかし、夏まで残ったのは僕1人でした。まぁ、とにかくシェフが昔気質の厳しい方だったんです。だからシェフが休みの日は、嬉しかったですよ(笑)。スタッフ全員、普段のピリピリ感が和らぐ日でしたね。いまはもうそういう時代ではないですが、修業するにはいい時代だったと思います。
『清月堂』では最初の1年はサービスでした。ちょうどバブル期だったので、思いがけない金額のチップをいただいたり、僕のために高いワインを開けてくれたり、今の若い人たちには信じられないような時代も経験しましたね。2年目に厨房に入り、本店と支店で4年間働きました。シェフは厳しかったけど、フランス帰りの先輩たちはいい人が多くて、いろいろ教えてくれました。
5年間『清月堂』で働いて、ほとんどの仕事をこなせるようになり、いよいよ渡仏計画を立てるのですが、その前に1年間だけ、大阪の叔父の店『ケンテル』でパティシェとしての修業をしました。1年間という期限が決まっていたので、お菓子やデザートについて通常1年では学べないところまで教えてもらいましたし、欧風菓子の面白さが分かりました。『ケンテル』で働きながら、フランスのレストラン100軒ぐらいに履歴書を送りました。しかし返事をもらえたのは、そのうちのたった1軒。それでも嬉しくて、早速僕はその南仏のレストランに向かうことになりました。
『清月堂』では毎週フランス語の先生を招いて、フランス語のレッスンもさせてくれていました。僕は『絶対にフランスへ行く』と決めていたので、語学の勉強は嬉しかったのですが、何せ毎日終電まで働きっぱなしだったので、その授業が眠くて眠くて、まるで苦行でした(笑)。
ところが最初のフランスの修業先は方言のある南仏だったので、レッスンは全く役に立たず・・・。働きながら南仏なまりが相当キツいフランス語を覚えてしまったので、その後、パリの店で働き始めたときには、喋る度にフランス人の同僚にゲラゲラ笑われました(笑)。

厳しかったが、修業するにはいい時代だった。

一つ星の次は二つ星の店、最後は三つ星の有名店というステップで働いた。

1995年、ついにフランスに渡った僕は、カンヌとマルセイユ近郊の店で働いたのち、エクス・アン・プロヴァンスの『ル・クロー・ドゥ・ラ・ヴィオレット』 で働きます。ここは何度も食事に行き、その度に「働かせて欲しい」と頼み続け、またお前か、と根負けされて働いた店。僕がいた時はミシュラン一つ星でした(翌年二つ星に)。いよいよ、憧れであったパリの『ピエール・ガニエール』で働きたいと思い履歴書を送ったところ、働かせてもらえると言う返事がきました。喜び勇んでパリに来たものの・・・一転、雇う話が白紙に戻されました。そこで、魚料理で有名なパリの二つ星の店『ル・ディヴェレック』に履歴書を送ると呼んでいただくことができたので、パリで働けることになりました。その後、天才かつ風変わりな料理人だった『マルク・ヴェラ』の店、そして日本でもよく知られるロアンヌの『トロワグロ』で働きます。
多くの星付きの有名店で働くことができたのは、自分の実力を過小でもなく誇大に売り込むのでもなく、ありのままに伝えるようにしていたからだと思います。履歴書には「なんでもやります」ではなく、生意気かもしれないけど、「部門シェフをやりたい、給料はこれぐらいで部屋にテレビと洗濯機をつけて欲しい」・・・という要望を書きました。そこを理解してくれた店では、その通りの契約で働くことができました。
『トロワグロ』に入った時も、直々にミシェル・トロワグロ氏から電話をもらい、いざ行くと「漁師が来た!」と歓迎され、すぐに魚部門を任されました。契約は半年でしたけど、伸ばして欲しいと言われました。でも、日本に帰る前に、一度白紙になってしまった『ピエール・ガニエール』で働きたかったんです。履歴書を送ったところ、すぐに「来い!」と返事がきました。嬉しかったですね。ついに憧れの店で働けることになったんですから。まずはオードブルを任され、次に魚部門、そして次は肉部門に移る、という時に5年パスポートの期限が残り少なくなっていて。ガニエール氏に「帰国する」と告げました。
なぜかその時「オレの誕生日までいてくれ」と言われたんですよね(笑)。僕が辞める日にはバーを借り切ってスタッフ全員でお別れ会を催してくれ、店に入ったら『日本に帰っても頑張れ』という横断幕まで作ってくれるというサプライズ。ガニエール氏の誕生日の夜には、マダムと3人で酒を酌み交わし、寂しさのあまり泣いてしまいました。 (後編に続く)

一つ星の次は二つ星の店、最後は三つ星の有名店というステップで働いた。

『若鶏のフリカッセ アンシエンヌ風 バターライス添え』

この鶏肉料理は最初の修業先『清月堂』で出していたメニューなので、僕にとっては思い出の料理なんです。『フリカッセ(fricassée)』とは、白い煮込みと言う意味。当時、この白いソースを味見し、なんておいしいんだろうと感動し、忘れられない味になりました。いまもクリームソースが大好きです。フランス語の正式な名前は『若鶏のフリカッセ アンシエンヌ風』と言い、つまり昔風のクラッシックな料理。最近ではこの料理を出すレストランはほとんど無くなってしまったので、ぜひご家庭で、このおいしさを味わっていただきたくて、ご紹介することにしました。おいしくするコツは、鶏肉をカリカリに焼くこと。とくに皮目にいい焼き色をつけてください。焼きあがった鶏肉に小麦粉をつけますが、面倒でも必ず振るった粉をまぶして、オーブンに入れてください。
添えるマッシュルームは丁寧に飾り切りしています。“シャンピニオンのトルネ”と呼ぶ切り方です。写真映えするようにやりましたが、こういうテクニックも、もう若い世代の料理人は習得しない時代になりました。僕も10年ぶりにやりました(笑)。クラシックなフランス料理なので、ちょっと昔風にお洒落に仕上げましたけど、ご家庭では不要ですよ。でもこんな風にきれいにしてあげると、ぐっと見栄えが良い一皿になるんじゃないかな。

若鶏のフリカッセ アンシエンヌ風 バターライス添え

若鶏のフリカッセ アンシエンヌ風 バターライス添え

コツ・ポイント

鶏もも肉は皮目を先に、全体がカリカリになりおいしそうな焦げ目が付くまで、じっくり焼く。 クリームソースに使う生クリームは、乳脂肪分が30%以上のリッチな動物性のものを必ず使うこと。 低脂肪や植物性ではクリームが分離してしまい、おいしく仕上がりません。

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