ピックアップシェフ

村山 太一 レストラン ラッセ  3年過ごした『ダル・ぺスカトーレ』で 食べることを楽しむ人生を習った。

イタリア料理の職人として毎日最高の料理を出す、それだけです。

同僚が「太一に給料を出してくれ」とオーナーに直談判するほど必死で働いた。

初めて行ったイタリアで、どうしても働きたかった『ダル・ペルカトーレ』を訪ねることは叶いませんでしたが、それがまた私の気持ちに火をつけたと感じます。帰国後は4つの仕事を掛け持ちし、寝る間も惜しんで働き、イタリアに住むためのお金を貯めました。アルバイト先のひとつが、イタリアンレストラン『フレスコ』(現在は閉店)でした。料理長をはじめ、イタリア人のスタッフによくしていただき、「イタリアで働きたい」と相談すると、ありがたいことに、フィレンツェにある『リストランテ・アルフレード』を紹介してくれました。
2000年、いよいよイタリアでの修業が始まったのですが、言葉も全く分からないし、≪前菜 パスタメイン ドルチェ≫というイタリア料理の構成から、まず戸惑いました。懐石料理の修業で、料理の一つ一つの順番や意味合い、器選びの重要さを叩き込まれていたので、その反対にシンプルなコースや、全部白い皿で料理を出すことが、なかなか理解できなかったんです。しかし仕事はどんどんやらせてもらえました。年功序列がなく、今日はメインをやれ、と言われれば、その都度教えてもらって料理するんです。最初は肉料理の担当だったので、毎日「ビステッカ・フィオレンティーナ(骨付きステーキ)」を何キロも焼いていました。スタッフもいいヤツばかりで、セリエAの試合を観戦に行ったり、冬はスキーに行ったり、仕事以外でも一緒に楽しみました。近くに同世代の日本人の料理人も数人いたので、その方達ともよく遊んでいました。
8カ月ほどフィレンツェで働き、次はどこで働こうかと思っていたら、友人たちがみな「ミラノがいい」と言うので、二つ星(当時)の有名リストランテ『アイモ・エ・ナディア』で2か月働きました。とはいえ、最初は面接どころか門前払いです。何度も訪ねて「給料無しなら、いいよ」と言われ、入ったんですが、とにかく最初から誰よりもがむしゃらに働いたので、同僚のイタリア人たちが「太一はオレたち以上に働いているんだから、給料を出してくれ」とオーナーのアイモ氏に直談判をしてくれたんです。それでお金がもらえるようになりました。ありがたかったですね。お金をもらって働く、という先鞭をつけたので、私の後からこの店で働いた日本人の料理人は、きちんと給料がもらえるようになりました。

同僚が「太一に給料を出してくれ」とオーナーに直談判するほど必死で働いた。

29歳の時、人生の大きな目標だった『ダル・ペスカトーレ』の一員に。

『アイモ・エ・ナディア』を辞めた後、オーナーのアイモ氏に「労働許可証を出してくれる店で働きたい」とお願いすると、彼の一番弟子がシェフを努める『トラットリア・エミリア・エ・カルロ』を紹介されました。ここでは3年間お世話になりましたが、楽しかったのはシェフとコンビで、いろんな料理コンクールに出たことです。毎回いい成績を収め、優勝したこともあります。2003年には国際的な大会『ボキューズ・ドール国際料理コンクール』にチャレンジしたのですが、イタリア予選では惜しくも3位・・・今度はリベンジだ!とばかりに、再出場した2005年、優勝しました。本当はイタリア代表としてフランスの世界大会に行く予定でしたが、ちょうどそのころ、夢にまで見た『ダル・ペスカトーレ』で働くことが決まり、断念してしまいました。
いつかここのシェフになる、と夢見ていた『ダル・ペスカトーレ』。あそこで働くんだ、と話すと誰もが「絶対に無理だ」と言いました。もちろんイタリア一の店、料理人からすれば神の領域の店、とは分かっていましたが、それでも働かなくては、私がイタリアに来た意味がありません。いつものように店の裏口から売り込みに行ったら、幸運にもオーナーのアントニオ氏に履歴書を渡すことができました。履歴書というより、コンクールの成績や写真、自分の料理レシピを書き込んだブックです。そのときは「一カ月後なら入れる」と言われましたが、予想通り、忘れられていて(笑)。しかしちょうど空きがあったので、ついに憧れの『ダル・ペスカトーレ』の一員になりました。29歳の時です。
現オーナーのアントニオ氏と、シェフのナディアさん夫妻は三代目で、2人のめざましい活躍で『ダル・ペスカトーレ』をイタリア一の店に育てました。私がいままで働いた店とは、全てが違いました。毎日がオリンオピックかワールドカップの決勝戦のようでした。世界一か敗者か。最高の素材を使い、最高の料理を出す。間違いは絶対許されないし、完璧しかあり得ない。そういう店です。そこで働く者は、ナディアさんの描くイメージを完璧に再現するのが仕事。彼女の頭の中を読む、のが第一歩でしたね。私は最初の1年半をパティシェとして働き、その後はメインを任されようになり、2年目からはスーシェフのような立場のポジションで働いていました。

29歳の時、人生の大きな目標だった『ダル・ペスカトーレ』の一員に。

自然が育てた食材を変化させ、最高に感動してもらえる料理を作る。

2007年の暮れ、日本で『ミシュランガイド』がスタートしたとき、日本に一週間ゲストとしてナディア夫妻が招聘されました。従来ならナディアさんの不在中は店を休みます。しかし出張の数日前に夫妻に呼ばれ「一週間いないから、太一、店をお願いね」と言われました。驚きました。まずはスタッフを集め、その旨を伝えると、え!大丈夫なの?とその場がザワつきました。私は「いつも通りやってくれればいい。オレがナディアさんと変わりなく指示するから、言うことを聞いてくれ」と伝えました。
その一週間は、いつも通り静かに過ぎました。もちろん緊張はしています。しかし平常心が緊張の上をいっている、というのかな。アスリートがゾーンに入るように精神がそこに入っている限り、ナディアさんがいようがいまいが関係ないんです。いつものように司令塔として指示を出し、自分の仕事をするだけ。そしてナディアさんが戻り、またいつもと同じ日々が始まります。どうだった?問題なかった?という会話も全く無く、またいつも通り。しかしこの一週間は、シェフ代理ではありましたけど、昔、イタリア料理の職人になると決めたときの「いつか『ダル・ペスカトーレ』のシェフになる」という突拍子もない願いをかなえられた気がしました。
2011年5月、私の店『Restaurant L‘asse』がオープンしました。『ダル・ペスカトーレ』で学んだ「自然の中ではぐくまれた最高の食材を変化させ、最高に感動してもらえる料理を作る」というフィロソフィ-を守り、職人としての気概を胸にスタートしたレストランです。しかしイタリアに7年もいたので、日本では全くの無名です。宣伝もほとんどしなかったので、オープンから半年ほどは、ほとんどお客様が入りませんでした。・・・あとひと月ダメだったら業態を変えようとまで思っていた矢先、徐々にお客様が増えてきたんです。嬉しかったですね。どこかで妥協すれば、もっと早くうまくいったかもしれない。でも19歳のとき「職人になる」と決めて以来、妥協する人生は絶対にしない、と。いまもその最初の気持ちを忘れず、日々、最高の料理を提供するだけ。『Restaurant L‘asse』は、そういう店です。 (終)

自然が育てた食材を変化させ、最高に感動してもらえる料理を作る。

沖縄で習ったおふくろの味『ゴーヤチャンプルー』

今回お教えするのはイタリア料理ではなく、代表的な沖縄料理の『ゴーヤチャンプルー』。イタリアに渡る前に働いていた沖縄・久米島での思い出の料理です。最初に教えてくれたのは、僕が任されていた居酒屋オーナーのお母さん。前回お教えした母の味噌汁と同じく、私にとっては、おふくろの味なんですよ。材料も作り方も正統派です。昔ながらの作り方ですね。そのお母さんは、総菜屋をやっていたので、かなりの料理上手。ゴーヤチャンプルーやジューシーという炊き込みごはんや、サータアンダギーなどを作り、売っていました。私も働いていた居酒屋で、このレシピ通りのゴーヤチャンプルーを出していたので、もう何百回も作っています(笑)。たくさんの鰹節を入れると、さらにおいしくなりますので、多めに入れてください。

ゴーヤチャンプルー

ゴーヤチャンプルー

コツ・ポイント

調理前にスライスしたゴーヤの塩もみと、薄切りの豚バラに塩もみを必ずしておくこと。 このひと手間で、ゴーヤは苦味がやわらぎ火が入りやすくなり、豚肉は旨味がでて、 おいしさが倍増します。

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