食材と生きる

宮崎県延岡市 きたうら善漁。(ぜんりょうまる) 吉田善兵衛

宮崎県の北部に位置する延岡市。東は日向灘、西は山に面し、多くの河川の流れる街だ。
<きたうら善漁。(ぜんりょうまる)>は、ここ延岡の繁華街を一本外れた場所に密やかにある。凛とした雰囲気の店内には、市内のみならず遠方から訪れた客の、おいしいものへの期待も立ち込めている。

その日の献立は、こんな一言で始まっていた。

「私にとって料理の師匠は紛れもなく“親父とおふくろ”でございます。両親の味を越える料理は出来ませんが、少しでも近づけるよう、精進致します」

採れた海の水で洗っただけの紫ウニから始まり、青ハギの〆、素揚げナスのお吸い物、スジガツオの造り、自らの脂で揚げるように焼かれた若鮎、メヒカリの唐揚げ、もずく、6種類の熱源で焼かれた豚肉と続く。

カウンター席で料理を食べる客の熱は加速的に高くなり、頂点に達するところで出されるのが、一文字によそられた炊きたてのごはんだ。

「これが、当店の主役です」と、店主の吉田善兵衛さん。

地元で無農薬栽培されたヒノヒカリを、田んぼの傍の湧水で炊いたという。

使う食材のほとんどを、地元で賄う。

「米なら米、魚なら魚の、そのものがもつ『おいしさ』を最大限に引き出すことが、料理人としての自分ができることだと思っちょります」と吉田さん。余計な創作は要らないという吉田さんの料理を、ある陶芸家は「あなたのしていることは、柳宗悦さんの提唱した民藝運動の料理版だ」と評した。

理想は、親が子に作る家庭料理

理想は、親が子に作る家庭料理

延岡の中心街から車で40分ほど北上すると、北浦という漁村がある。吉田さんはここ北浦で漁師の息子として生まれた。店名の<善漁丸>は、父の持つ船の名前だ。

「料理が好きで、18歳で大阪の調理師専門学校に入りました。そのときは自分にしかできない、芸術家のような料理人になりたいと思っていました。思い返すと恥ずかしいのですが、『この料理はお前にしかできんわ』と言われるような料理を作りたかったんです」

卒業後は京都の日本料理店に修業に入るも、家庭の事情で不本意ながら帰郷。20歳からの6年間を漁師として過ごす。

「漁師時代の前半は葛藤していましたね。フランス料理もかじって『これがプロの料理じゃ』と息巻いていたのに、漁師になって、新鮮なエビを茹でて食うと、めちゃめちゃうまくてですね。気がつくと一ザル食うてしまう。これがうまいという気持ちと、手をかけ自分にしかできない料理が上等だという思いが渦巻いて……。

でも6年経った頃、自分の中で決着がついたんです。新鮮なエビを茹でたらうまい。それでいいっちゃね、と。まあ、そうは言いながらも、その後ビストロ料理店で働いたりしよるので、簡単には諦めきれんやったと思います」

父を超えるためには、漁ではなく、料理で勝負したい。その気持ちが高まって、吉田さんは26歳で料理人として再スタートを切った。日本料理店、民宿、ビストロ、オーストラリアの回転寿司と様々な職を経験し、2008年、31歳で独立して<きたうら善漁。>をオープンする。

「自分の中でも究極の料理は『親が子に作る家庭料理』だと思っています。親が子供に料理を作るとき、そこには計り知れないほどの愛情がある。本当にこれにはかないません。でも、少しでも近づきたいから、調理技術や、食材や、サービスや器で補っているのでしょうね」

2008年、31歳で独立して<きたうら善漁。>をオープンする。

“作る”のではなく“理(ことわり)を料(はか)る”を大切にしたい

「料理とは理を料ることという定義がある」と吉田さんはいう。創作をせず、原料の原味を殺さないことは、吉田さんが最も大切にしていることだ。

「はっきり意識できたのは、独立して間もなくの頃、自分の尊敬する方にお越し頂いたのがきっかけでした。

最後にスイカをお出ししたとき、その方が『このスイカはおいしいけれど、砂糖を振ってバーナーで炙ったらおもしろいよ』とおっしゃった。自分はそのとき、“おもしろい”仕事を追求していないとはっきり自覚できたんです。

スイカを出すときに気を配ってきたのは、目利き、出すときの温度、そして器。これらは“おいしさ”に関係するものです。それまでは筋の通っていない、意味のないこともしていましたが、この一件で自分の追求すべき方向がすっと見えました。気づかせてもらって、ありがたい体験でした」

漁協には吉田さんの子供時代を知る人が多くいる。「やっぱり自分は、北浦が好きで、ここに戻ってきてしまいますね」と吉田さん。「遊び用の船」として残した小型船<善漁丸>も、北浦港につながれている。

▲漁協には吉田さんの子供時代を知る人が多くいる。「やっぱり自分は、北浦が好きで、ここに戻ってきてしまいますね」と吉田さん。「遊び用の船」として残した小型船<善漁丸>も、北浦港につながれている。

理想の魚料理は、漁師との信頼関係で成立する

<きたうら善漁。>の食材の核をなしているのは、魚だ。

吉田さんは毎朝、延岡の数カ所の漁港を回る。この日は自宅から数分の場所にある北浦漁港からスタートした。

漁港には船が到着し、仕分けが始まっていた。

「自分も漁師時代には、ああやって仕分けしていました。北浦漁港で入札される魚は、アジやイワシ、サバといった回遊魚がほとんど。巻網漁で採られていて、主には養殖の餌になるんです」

料理人を目指す道の途中で、漁師を経験できたことは、吉田さんにとって大きな財産だ。

「生きたままを食うとどんな味がするか、生け簀に入れるとどう変化するか、小さい頃から魚を食べてきているからその違いがよう分かる。だから自分がどの漁港でどんなものを買うべきかも、自ずと見えてきます」

北浦漁港で吉田さんが買うのはイカやカワハギなどの活魚だという。

次に向かったのは庵川(いおりがわ)漁港。

「ここは料理人が多いですね。競りの開始が8時45分だから、料理人でも頑張ればなんとか来られる時間なんです。魚の種類も多いでしょう」

庵川漁協のセリは速い。箱ごとに入札したい人が価格を書き、読み上げた最高値ですぐに決まる。一箱平均3秒!

▲庵川漁協のセリは速い。箱ごとに入札したい人が価格を書き、読み上げた最高値ですぐに決まる。一箱平均3秒!

「生産者さんだけでなく、漁師さんも、食べる人の顔まで見ている人はいい仕事をすると思います。ここ庵川では、そんな漁師さんに出会いました。

普通、漁師は魚を卸したら、あとは漁協に任せて帰る人がほとんどです。でも、ある日、入札の最後までおる漁師さんがおって。そういう人、珍しいですよ。たまたま自分が、その人の魚を触ったら『触るな、触らんでもわかる』って怒られまして(笑)。ああこの人はプライドを持って仕事していると伝わりました。それで後日、話しかけて、徐々に親しくなって。

カツオをマギリ漁(トローリング)で釣る人なんです。カツオは、生きた状態で港に持って帰れない。止まったら死ぬから、船上で締めるしかない。ですから自分の理想の状態にするための締め方や運搬の温度帯を、信頼関係を作って、この漁師さんにお願いしました。自分のカツオの刺身は、この漁師さんのものを中心に成り立っています」

春先、獲れたばかりのカツオがあれば、漁師やその家族しか食べたことのないであろうモチモチ食感の刺身を出す。時期が変われば、それに適した手当てをする。少し熟成して旨みをのせた刺身、獲れたばかりの透明でコリコリのイカ……。

季節に応じた「その日の宮崎・延岡の味」を感じてもらうために、生け簀での日数、締め方、時間、温度、漁法、漁場などを逆算し、「きたうら善漁。」の刺身は提供される。冷蔵庫は、0度、3度、5度、8度と4種類の庫内温度を使い分け、その日の魚をベストな状態に持っていくのだ。

「でも、こんなテクニックは表面的なものに過ぎない」と吉田さんは言う。

「最終的に伝えたいのは『心』なんです。例えば、東京から来たお客さんに『新鮮な魚を食べさせてあげたい』と、親父が一晩かけて獲った魚があったとします。その魚は、いくら数日寝かしたほうが旨みが増すとしても、自分は親父の気持ちを大切にしたい。自分は漁師さんや生産者さんの気持ちをお客さんにつなげる役目も果たしたい。その意味も含めて、自分の料理は“気持ち本位”だと思います」

(後編へ続く)

理想の魚料理は、漁師との信頼関係で成立する

ぶえん汁

ぶえん汁

コツ・ポイント

魚のアラと野菜が入った汁物で「無塩汁」と書く。

「『無塩』とは、塩を入れないという意味と、新鮮な魚という意味があります。『無塩汁』は漁師の朝飯で、新鮮な魚介を使った汁物です。漁から戻ってきて、近所のおばちゃんに魚をおすそ分けすると、『これ持ってけ』と野菜をいただく。刺身にした残りのアラに、そういう野菜を入れて作る汁で、自分は小さい頃からこれを食べちょりました。原点の味に近いものですね」(吉田さん)

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きたうら善漁。(ぜんりょうまる)

きたうら善漁。(ぜんりょうまる)

〒882-0821

宮崎県延岡市本町1-3-14

TEL 0982-31-0051

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  • 文:柿本礼子
  • 写真:牧田健太郎