ピックアップシェフ

渡辺 雄一郎 Nabeno‐Ism フランス料理を学んだ日本人が江戸食文化発祥の地で どういう表現をするかをテーマに。

浅草・駒形の街並み、風土、自然をリスペクトしながら店作りをしたい。

料理人人生に悔いを残したくないと『タイユヴァン・ロブション』へ。

「タイユヴァンとロブションが組んで、恵比寿にお城を建てて何かやるらしい・・・」というニュースは、26歳の私にとって衝撃的なことでした。フランス留学中に初めて食べたパリの三つ星レストランが、ジョエル・ロブションの『ジャマン』だったんです。どうしてもあの『ジュレ・ド・キャビア クレム・ド・シューフルール』のテクスチャーと味が忘れられず、あの料理の秘密が知りたい、と思ってしまったんです。ただ、当時私は『ル・マエストロ ポール・ポキューズ ・トーキョー』の部門シェフとして重要なポストをいただいていましたし、なにより結婚したばかりでした。どうしても『タイユヴァン・ロブション』にチャレンジしたい、料理人人生に悔いが残るのが嫌だ、と妻に説明し、辻調のフランス校時代にお世話になった木下幸治先生に紹介してもらい、『タイユヴァン・ロブション』の門をたたきました。
1994年にオープンしたシャトーレストラン『タイユヴァン・ロブション』の厨房スタッフは、言ってみれば全国選抜チームでした。今でいう、チームジャパンですね。そういう人たちが集められてスタートした店で、私は肉部門のシェフに抜擢されました。当時の最年少部門シェフでした。オープンから3年間、ランチ80名、ディナーも80名という満席状態がずっと続いたんですから、それは凄かったですよ。毎日5時半に起きて6時半から仕込みに入り、帰るのは毎晩1時過ぎです。新婚なのに家にいない(笑)。あの大変な時期は、妻の理解と素晴らしい仲間がいたから、乗り越えられたと思っています。
仕事がキツいのは、当たり前だと思っていたので、フランスでも日本でも、逃げたいとか辞めたいと思ったことは一度もないです。私のバックボーンは高校野球。監督の山下章先生に鍛えられたおかげで、体力的にも精神的にも耐えられました。山下先生には「ナベちゃん、社会に出たらおこられ上手になりなさい」という言葉をもらいました。そのときはあまりピンときませんでしたけど、叱られる立場、叱る立場になって、その言葉の素晴らしさを理解しました。その山下先生は2007年に他界されました。命日には毎年母校のグラウンドを訪れ、恩師を想い手を合わせています。

料理人人生に悔いを残したくないと『タイユヴァン・ロブション』へ。

『ジョエル・ロブション』では日本人料理長として、記憶に残る料理人を目指した。

30歳になったとき、『タイユヴァン・ロブション』1階の『カフェ・フランセ』の料理長を任せられたことは、私にとって大きな分岐点になりました。『カフェ・フランセ』は、いまで言うところのネオ・ビストロ。昼は100人以上入り、夜も忙しい店のシェフとして一生懸命自分の料理を表現しました。人生でいちばん働いていた時期かもしれない。次第に「タイユヴァン・ロブションの一階は面白いぞ」、とメディアにも取り上げていただけるようになりました。厨房での私は相当厳しかったようで、当時の門下生たち曰く「今だに緊張します」だそうです(笑)。今やみんな立派なシェフになって活躍していますが、いまだにいいつき合いがあります。その時代の僕の財産ですね。
『タイユヴァン・ロブション』に入ってちょうど10年目、店が『ジョエル・ロブション』として、大きく変わることになりました。私自身、ここを10年で抜ける予定でしたけど、ロブションさんから「次の店のメインダイニングは、お前に任せる」と言われたんです。抜けようとしている人間が、そんな重要なポストを簡単に引き受けては、失礼にあたると思い、契約するかどうか相当悩みました。厳しいことも分かっていましたし。やっと決心し、メインダイニングの料理長として3年契約でサインをしたときは、怖さ80%、期待感20%の心境でしたね。でもやるからにはいい職場にしたい、切磋琢磨の場にしたいと、それだけをテーマにして働きました。約束の3年が経ち、そろそろ自分の店を、というタイミングに『ミシュランガイド東京』がスタートしたので、独立の件はまた延期となりました(笑)。運命だったんでしょうね、ここにいろ、という。それなら、フランスの有名店の提携レストランの日本人料理長として、もっと自分をアピールしたい、みなさんの記憶に残る料理人になりたい、という私個人のテーマもあり、続けさせてもらったと思っています。

『ジョエル・ロブション』では日本人料理長として、記憶に残る料理人を目指した。

江戸の食文化が生まれた浅草・駒形だからこそできることをやりたい。

『ジョエル・ロブション』を辞める、と伝えようとすると、ロブションさんに4日もはぐらかされて。話を聞いてくれない(笑)。ようやく伝えたとき、気合を入れるかのように頬を叩かれ、同時に「ブラボー!」と頭を撫でられ「お前に才能がなかったら、こんないい話は来ないだろう。応援するよ、いままで21年間ありがとう」という言葉をいただきました。本当に、感謝しています。同じ料理人ですから、私の想いを分かっていただけたんですね。
2016年7月7日にオープンした『Nabeno-Ism(ナベノ-イズム)』は、もうすぐ50代になる私の料理がどうなっていくんだろうと、自分でもワクワクする気持ちがあります。隅田川を望む店のテラスは、東京都のプロジェクト『かわてらす』の認可第一号店でもあります。良い店とは、料理がおいしいのは当たり前で、サービスも雰囲気も含めて良いのが、一番大事なことです。川を見渡すテーブルに座り、「眺めが良くて気持ちよかった」と言われたら、やっぱり嬉しいですね。
『Nabeno-Ism』では、私が学んできた王道の、フランス料理らしい料理を守りつつ、浅草・駒形というこの土地との融合を、料理で表現できたらいいな、と思います。料理とは《土地》だと思うんですよ。浅草・駒形の街並み、風土、自然、そういうものをリスペクトしながら、自然体で表現したい。
まぁ、オープン当初は、いろんなお叱りも受けました。なぜ『ジョエル・ロブション』の料理を継承しないのか、とか、どうして浅草・駒形なのか、とか。でもそれはそれでいいんです、お客様の感想ですから。王道のフランス料理をいじくりまわす気は全くないです。ただ、21年間もロブションさんの元にいたので、何かショッキングなことをしないと変化がない。私はここでやりたいことをするためにこの地を選んだので、そこにブレはないし、惑わされることもない。それこそが私がこの場所でやる意味なのかと、そんな風に考えています。 (終)

江戸の食文化が生まれた浅草・駒形だからこそできることをやりたい。

もうひとつ、とつい手が伸びる『鶏手羽のア・ラ・プロヴァンサル』

25年前、フランスのリヨンで修業していたころの思い出の料理をご紹介します。カエル料理というと、日本では馴染みがありませんが、フランスではリヨンあたりの名物料理として知られています。「リヨンにカエルでも食いに行くか」とか、そんな感じかな。そのなかでもとくに私が好きなカエル料理を、鶏肉を使ってお教えします。プロヴァンス風と名がつく料理は、ニンニクが欠かせないのですが、この『鶏手羽のア・ラ・プロヴァンサル』もニンニクと焦がしバターの香りが食欲をそそり、とまらなくなるおいしさです。たっぷり作って、大皿にドンと出して、ぜひ手づかみで食べてくださいね。フランス人はこのカエル料理を、どれだけキレイに食べられるか競争するんです。僕はいつも、ヘタクソと言われていましたね(笑)。
おいしく仕上げるコツは、鶏にからめるバターを十分に熱して、ハシバミ色(ノワゼット)にすることです。バターを入れる前、太白胡麻油からうっすら煙がでるまで熱してから、バターを入れてください。バターが色よく焦げ、ハシバミ色になったら、揚げた手羽先とニンニク、パセリを入れてよくからめます。そして最後にレモンをキリリと絞ってかけ、さあ、かぶりついてください(笑)。ビールや辛口の白ワインがすすむ料理です、是非お楽しみください。

鶏手羽のア・ラ・プロヴァンサル

鶏手羽のア・ラ・プロヴァンサル

コツ・ポイント

鍋に太白胡麻油を熱し、うっすら煙が出てきたらバターを入れます。溶けたバターがハシバミ色(黄色がかった薄茶色)になるまで、丁寧に熱すること。揚げた鶏手羽とニンニク、パセリを入れ、鍋をゆすりながら全体にソースがからむように仕上げてください。 ※調理時間に、漬け込み時間は含みません。

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  • 文:北條尚子
  • 写真:キッチンミノル