ピックアップシェフ

井上 和豊 スーツァンレストラン陳 四川飯店の伝統や歴史をしっかり学び、その先にある自分の料理を創り出したい。

活気あふれる賑やかな厨房に憧れて中国料理の道へ。

中学高校時代はバスケットボールに熱中し、完全燃焼。

出身は秋田県湯沢市です。故郷は山に囲まれた盆地で、周りは田んぼしかない農村地帯で、まるで時間が止まっているように感じる長閑な田舎町です。家業は酪農を営んでいて、父と母が乳牛を育てていました。両親が忙しかったので、食事は主に祖母が作ってくれていたんですが、長男の僕は幼いころから台所に入っては、祖母の料理をよく手伝っていました。野菜の皮をむいたりとか、簡単な手伝いだけですけど、祖母が「これは和豊が作ってくれたんだよ」と言い、家族が「おいしいね」と褒めてくれるのが、すごく嬉しかったですね。それで徐々に料理が好きになっていき、自分でも焼き飯とか簡単なものを作るようになっていきました。そのころの味の記憶で今も忘れられないのが、祖母が作る《ちまき》です。笹の葉を取ってきて、蒸した餅米を包んで保存しておき、蒸し返してきな粉につけて食べるおやつのような素朴な料理。僕も包み方を教わって上手に笹に巻いてちまきを作っていました。今思えば、あのころが僕の料理の原点になったのだと感じます。
中学・高校時代はバスケットボールに没頭していた時期でした。秋田県はバスケのレベルが高く、全国大会に出場できるほどの高校がひしめいていました。とくに僕の高校時代は、一学年上の、その後NBAでも活躍した田伏雄太さんがいた県立能代工高の黄金時代。一度、能代工高と試合をしましたが、110対11で完敗……。全く歯が立たなかった。当時僕は背が150センチ台しかなくて、レギュラーというわけでもなく、なかなか試合に出してもらえませんでしたが、それでも最後までバスケを続けました。厳しい練習をよく続けたね、と言われることもありましたけど、楽しかったからでしょうね。そこまで熱中していたので、高3の夏にバスケ部を引退すると、完全燃焼しきって抜け殻のようになってしまったんですよ。それを救ったのが《花火》でした。

中学高校時代はバスケットボールに熱中し、完全燃焼。

人々を喜ばせる素晴らしさを花火師の父から学んだ。

有名な《大曲花火大会》などで知られる秋田は、昔から花火作りも盛んなところで、うちの父は若いときから酪農の仕事の合間に、花火師としても働いていました。花火師の技量が高く、最先端の花火を生み出している秋田の花火会社には、全国からその技術を学びに来る人が大勢いたほどです。そんな現場で夏休みにアルバイトをすることになりました。僕の役割は、できあがった花火玉を筒に仕込むだけでしたが、アルバイトの最後の日に、花火大会の打ち上げに参加させてもらったんです。ヘルメットをかぶって、花火の真下に陣取り、実際に花火を打ち上げるのは、言葉で言い表せないほどの感動がありました。自分の仕込んだ花火が頭上で炸裂する凄さにも興奮しましたが、なんと言っても対岸で見物する人達の大きな拍手や歓声には、トリ肌が立ちっぱなしでした。あんなに手間と時間をかけて作る花火も、その輝きは一瞬で終わります。しかし一度に何百人、何千人を喜ばせることができるってすごいなー、といまもなお、あのとき味わった感動は忘れられません。
そんな夏休みも終わり、そろそろ進路を決める時期になりました。父は酪農の仕事は継ぐ必要はないと言っており、大学に入って卒業後は安定した仕事、公務員になって欲しいと望んでいたのです。しかしずっと料理が好きだった僕は、父に逆らうように「料理人になりたい」と打ち明けました。即、大反対です。しばらく口をきいてくれませんでした。
料理をやりたいと思った理由は、僕があまりにも料理についての知識が無かったことも大きかったんです。牛を飼っているので、僕は家族旅行をしたことがありませんでした。外食もせいぜい焼肉屋に行くか、回転寿司に行くか、そんなもんです。当時の料理の知識は、『料理の鉄人』などのテレビ番組か、料理漫画で聞きかじった程度でした。卒業後、盛岡の調理師学校に進学できたのは、母のおかげです。母が父との間に立って希望を叶えてくれたのですが、まだ父とは微妙な状態のまま、実家を出ました。

人々を喜ばせる素晴らしさを花火師の父から学んだ。

『szechwan restaurant 陳』のオープニングスタッフとしてスタート。

専門学校に最初に求人が来たのが『四川飯店』グループでした。入学当時はフレンチのシェフか寿司職人か、と思っていたので中華の道に進むとは全く考えていませんでした。しかも『料理の鉄人』で観ていた鉄人・陳建一さんが『四川飯店』グループのオーナーとは知らなかったんです。先生に「どんな店ですか?」と聞くと、「お前には無理。厳しくて有名な店だ」と言われました。そんな風に言われて逆に興味を持ち、店の雰囲気を見せてもらおうと、一日だけ本店の『赤坂四川飯店』に研修に行かせてもらったんです。そのとき当時の料理長に「一日では分からないだろう。夏休みに研修に来なさい」と言われ、夏に再び上京して一週間研修することになりました。
先生には厳しい店だ、と聞いていましたが、僕の印象としては、とにかく賑やかな店。怒鳴ってる人もいれば、笑っている人もいるし、活気があって、けっこう楽しそうだなって(笑)。一緒に研修に来ていた僕ら3人を食事に誘ってくださったのが、その後僕の上司になる菰田欣也総料理長でした。当時は渋谷店準備室長という肩書だったので、どうして僕ら研修生にご馳走してくれるのか不思議でしたが、高級焼肉店に行けたのが嬉しくて、あまり深く考えませんでした(笑)。
四川飯店から届いた合格通知にある配属先は、セルリアンタワー東急ホテルにオープンする『szechwan restaurant(スーツァンレストラン) 陳』でした。本店希望だったのになぜ…という気持ちで、少し心が折れました。しかも担当部門がデザートで、さらに落ち込みました。最初のひと月で辞めたくなって、両親に相談すると、「辛いなら帰ってきなさい」と言われました。なんだ、頑張れと言ってくれないのか、と思い、それなら逆に絶対辞めない、ここで頑張るという気持ちになったんです。
1年目は毎日がとにかく忙しくて、ほとんど記憶がありません。ちょうど入社1年目の終わりごろ、たまたまテレビに出るチャンスが巡ってきました。人気番組『チューボーですよ!』の中に『未来の巨匠』というコーナーがあったんですが、テーマが《春巻》だったので、菰田総料理長が「春巻がいちばん早く巻けるやつを出す」と仰り、店の若手6人で競争したら、僕が勝っちゃいまして(笑)。テレビに顔と名前が出たことで家族も大喜びしてくれましたし、僕自身の気持ちもグンと上がったんですよね。1年間の苦労が報われた気がして、2年目からの修業が楽しくなっていきました。  (後編に続く)

『szechwan restaurant 陳』のオープニングスタッフとしてスタート。

家庭用フライパンで作る『什景炒飯(パラパラ五目チャーハン)』

今回お教えするのは、昔から得意料理のひとつだったチャーハンです。でも当時作っていたのは、中華料理のチャーハンというよりも、焼きメシ、という感じでしたね。塩で味をつけるという発想がなく、味付けは醤油のみ。仕上がりが茶色っぽい感じになりました(笑)。いまでも町の食堂で醤油味のチャーハンを食べると、うまいなーと思ってしまう思い出の料理です。
しかしここでは家庭でできる中国料理ならではの、パラパラのチャーハンをお教えします。まず、温かいごはんに卵を混ぜるのですが、卵は卵白が焦げた香りが食欲を誘うので、黄身と卵白を混ぜすぎないことがポイントです。ざっと混ぜる程度でOK。ごはんにその卵を混ぜ、味もつけてしまいます。チャーハンは短時間で作るもの。調味料をその都度計りながら加えると加熱し過ぎるので、ここで味もある程度決めてしまいましょう。フランパンにごはんを入れたら、箸やヘラでごはんをフライパン全体に広げます。中華鍋で作る場合は、鍋を振ってパラパラにしますが、家庭用フライパンは鍋を振らずに面にごはんを広げることでパラパラにします。しっかりごはんが炒まったら、醤油とオイスターソースで味と香りをつけて完成です。コツさえ覚えれば、パラパラチャーハンが得意料理になりますよ。ぜひトライしてみてください。

什景炒飯(パラパラ五目チャーハン)

什景炒飯(パラパラ五目チャーハン)

コツ・ポイント

ごはんは温かいものを使うこと。卵は軽くかき回す程度の状態で、ごはんに混ぜるのがコツ。フライパンの底を有効に使い、ごはんを全面に広げることで、手早くぱらっと炒めましょう。火力はやや強めで、短時間で一気に調理します。

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  • 文:北條尚子
  • 写真:牧田健太郎