ピックアップシェフ

小河 雅司 元赤坂ながずみ 放浪の末に見つけた料理人の仕事。これからもずっと旅を続ける人生でありたい。

故郷・博多の味といえば、あごだしで作る『博多雑煮』。お正月が待ち遠しかった。

料理人修行は5年と決めていた。独立のために学べることは全て貪欲に吸収。

和食の料理人になろうと決心し、上京したのは22歳の時でした。働くお店は食べ歩きをして自分の勘で決めようと思っていたので、当時の有名店を何軒も回りました。最初にここで働きたいと思ったのは、100席弱もある大きな料亭さんで、とても忙しいところでした。食事を頂いたその足で「働かせて欲しい」と電話をかけ、すぐに見習いとして雇っていただきました。平均睡眠時間は3時間程度の寮生活。当時から30歳までに自分のお店を持ちたいと考え、それを逆算すると5年ぐらいで料理人としてモノになって、そしてその後お金を貯めないといけない、という自分なりの修行プランをたててましたので、あくびする余裕すらなかったですね。働きはじめて1週間で感じたのは、この分業制のなかすべてのポジションをまわるには相当な時間を費やすであろう。その頃よく耳にした「板前十年」ということば。みんな口にするんですよね。僕はキライなことばでしたね。人の人生を勝手に決めるなよってね。裏を反せば板前さんを十年やらないとスタートラインにはたてないってこと。そこに立てたところでその後成功するひとはほんのひとにぎりなのに。。
とにかく早く一人前になるには、どんなにしんどかろうと大型店ではなく、小じんまりしたお店でいろんなことをやらせてもらいながら勉強すべきであると痛感したので、その後お世話になった3軒とも、それぞれに特徴と個性のある小さな料理屋さんでした。様々なことを学びました。調理法だけでなく、食材のこと、日本料理の歴史や仕込、献立の組み立て方。また、お客さまとの会話の中からも。知らないって事を知れることが何よりの喜びで日々励みました。しかしそうしていろんなことを学びながらも、仕上げの部分、例えば、お刺身を切る、味つけする、といった仕事はやらせてもらえません。指示されたことを、素早く的確に仕上げるだけです。

料理人修行は5年と決めていた。独立のために学べることは全て貪欲に吸収。

修行時代、一度だけ、何かの調理法について「どうしてこういうやり方をするのですか?」と親方さんに質問したことがありましたが、「昔からそうやってきた、見て学べ!」という答えだったので、聞いても満足する答えは返ってこないと思い、その後は一切聞かなくなりました。僕は何事もはっきりした答えがないと納得しない性格のようで。理系的な思考というのかな。例えば食材の切り方ひとつでも、そうする理由が必ずあるはず。それが知りたくて、家に帰ると和食の本をひたすら読み、本を抱いて寝るような生活でしたし、定休日には図書館に通って、あらゆる食関係の本を調べ、答えを探していました。さらに店ではやらせてもらえない包丁の練習や味つけも、毎晩のように家でやっていました。店では親方さんに指示されれば、その通りにやるんですけど、心の中では“あっちのやり方の方が早く正確なのに”と思っていました。僕、ついいろんなこと疑っちゃうんです(笑)。
日本料理って、いつの時代からか暗黙のルールみたいなものがたくさんつくられてしまい、それに沿っていないと「創作的」だとか捉えられてしまいます。考えなくて済む分それを守った方が楽なのでしょうが、知恵を使い理屈を考えきれれば、本来はもっと自由なはず。料理ってそもそも創作するものでしょ?
今と昔じゃ料理、食材のおかれている環境がだいぶ違いますからね。
いつか全てを自分の決断でやれるときが来たら、そのやり方でやればいいんだから、辛抱辛抱。

自分自身が楽しみ、お客さんに喜んでもらえる料理を第一に考えている。

5年間で4軒の店で働きましたけど、正直言って、毎日毎日、逃げ出したくなるほど苦しかったです。自分の好きな仕事だと思って入った料理人の世界ですが、やっぱり向いてないのか、と弱気になることが何度もありました。でも、そのたびに“天職”なんだから、と自分に言い聞かせ、思い込ませながら、どんなキツイことがあっても耐えようと思って、続けてきました。とにかく5年で修行を終わらせ、6年目にはどこかのお店のお料理を任されているイメージが、常に頭の中にありましたので、料理に関することは全てメモし、先輩の仕事までぶんどってやるくらいの意気込みで過ごしていた様に思います。そろそろ修行も終わりという時期に、興味があって食事をしに伺ったのが、恵比寿にある紹介制の和食屋さんでした。オーナーから「3ヶ月だけ料理を見て欲しい」と請われ、僕は27歳で料理長兼店長として働くことになりました。
その後、お客様の評判に背中を押されるがまま、1年半ほどそちらでお世話になりました。これは、それまでとは違うまったくの新しい経験でした。なにしろ修行時代には、自分が責任を取らなくても良い立場でしたが、ここでは全ての責任が僕にかかってくるわけです。責任者として、やるべきことが数えきれないほどあるのが分かったと同時に、これほどまでに料理の仕事に真剣に向き合わなければならないことを、初めてリアルに実感できた時間となりました。

自分自身が楽しみ、お客さんに喜んでもらえる料理を第一に考えている。

僕が第一に考えていたことは、いたってシンプルなのですが“料理でお客さまに喜んでもらうこと”でした。もちろんどこで働いても、それがいちばん大事なはずですが、作り手意識が強すぎたりすると、最終的に残念な結果になってしまったり。まず、お客さまの目の前に料理が運ばれた時から召し上がりきるまで、この繰り返しをいかに感動していただくかが大事。美味しいは当たり前で、見栄えや演出まで考え、あくまでも“喜んでもらう為に料理を作る”ということの重要さに改めて気づかされました。それは僕の料理への概念に大きく影響を与えてくれましたし、それは今の店を持ってからも、ますます強くなっていきました。
そのお店を辞めたあと、短期間ですが飲食関係の会社のサラリーマンとして、居酒屋さんなどのアドバイザー的な仕事も経験し、経営面も学ぶことができました。同時に、いよいよ自分が独立するための店舗物件も探していて、巡りあったのが現在の店です。でも、当時はちょうどリーマン・ショックの直後で、どんどん不況に向かっていく時期。お店を始めるには物件がたくさんあるなど最高かつ,続けるには最悪のタイミングでした。僕の中でも様々なお店のイメージやプランがありましたけど、この時期にスタートするなら、僕ひとりで切り盛りできるコの字型のカウンターで、せいぜい10席ぐらいの店だろうか、と店のイメージが具体化していきました。一人でやるには作り置きもできて、しかも「つくりおき」の印象のわるくないもの、と思いまして。それがおでんです。ついに僕の店『元赤坂ながずみ』は、2009年4月に、おでんをメインとする店としてスタートしました。

もっと人生経験を積み、社会勉強をして、最終的に数学の先生になりたいと思っている。

しかしオープン1年目は、お客さんはほとんど来てくださいません。借金がかさみ、金融機関からの追加融資も困難となり、半年ほどの家賃を滞納してしまいました。苦渋の選択で福岡の母に電話をし50万円を借りました。来月返すよ、と言ったものの、ひと月で状況が好転するはずもなく、そのちょうど1ヶ月後、追加援助をと母に電話したところ「またかかってくると思っていたよ」と言われて…。その瞬間、自分の中で何かがはじけるように「これではもうダメだ、全部変えなくては生活していけない」と感じ、もう時代のせいにするのは止めようと、『ミシュランで星を取る準備』を決心しました。それからすぐにおでん屋スタイルをやめ、自由な発想で作る僕らしい和食のコ―スへと、料理内容を全く変えました。
そしたら、取れちゃいまして。
そして今日に至ります。学びの日々は、かたちを変えて今も続いています。
僕、この仕事が大好きなんです。ですが、十数年この仕事と向かい合ってきて思う事があります。
一流と言われるような仕事に関わればそうするほど、僕を含めてですが修行時代のお給料って本当に微々たるもので、年金はおろか税金すら払えないのがまるで当たり前です。修行ですから労働時間はとんでもなく長くても仕方なく思いますが、社会的義務を果たすことが不可能な職種という点においてはかなり疑問を抱きます。
唯、日本料理に関して述べさせていただければ、親方衆だけが私腹を肥やしているようにも思えません。
そもそも既存の日本料理の美的概念では、薄利過ぎます。そこを疑わずして、この職業の社会的地位向上は望めないように思ってなりません。

もっと人生経験を積み、社会勉強をして、最終的に数学の先生になりたいと思っている。

今回お教えする料理、『博多雑煮』は、毎年お正月に家族と一緒に食べた思い出の料理です。トビウオの煮干し「焼きあご」などでとった出汁と、椀種にはブリ、丸餅、かつお菜が入ります。かつお菜は博多では古くから作られている高菜に似たお野菜で、とてもおいしい食材ですが、地元以外では手に入りにくいので、レシピでは小松菜を使っています。両親が、ときどき福岡から僕の料理を食べに来てくれますが、母にはいつも泣かれてしまいます。代わりのきかない存在になれるよう働いてきた僕にとって、遠く離れてはいますが、その両親が今も変わらず元気でいてくれることには心から感謝しています。僕が板前を目指すと決めた時から、役に立てばと母は陶芸を始めました。それから十余年、自分で焼いた器を、僕の店で使いなさいと次から次へ送ってくれるのですが、なぜだか自分の名前を器の表側に入れたり、お店では使いにくい作品が多くて、それだけはちょっと困っています(笑)。
来年の4月に丸5年を迎えます。それを期に、この店を一旦閉め、海外に移住しようと考えています。現時点での予定としては、たぶんニューヨークに5年、その次はヨーロッパのどこかで5年住んで、海外で料理屋さんをやりながら、もっともっとたくさんのことを学びたい。体感したい。そして、日本人としての勘を取り戻すために、再び日本でお店を5年やる予定でいます。そして、それからもう一度勉強して50歳で数学の先生になりたい。これは僕の人生の目標です。十代の頃、僕がなりたかった先生像が、まさにそういう感じなんです。人生経験が豊富で、様々な引き出しを持っていて、生徒に自由な夢を描かせることのできる先生。そういう存在にいつかなりたい。まだまだ僕の旅は続きますよ。

福岡県・博多のお雑煮

福岡県・博多のお雑煮

コツ・ポイント

焼きあご・鰹節・昆布・干し椎茸の出汁をミックスした風味高いすましと、縁起の良いぶりを組み合わせます。 焼きあご出汁で作るのが博多風です。旨味をバランスよくミックスすることで、さらに風味が際立ちます。地元では青みに「かつお菜」を使いますが、手に入りやすい小松菜でつくりました。

レシピを見る

  • facebookにシェア
  • ツイートする
  • はてなブックマークに追加
  • 文:
  • 写真: