ピックアップシェフ

岡村 光晃 トラットリア ケ パッキア 初めて出会ったイタリアの味、ジェノベーゼソースのパスタのおいしさに衝撃を受けた。

初めて出会ったイタリアの味、ジェノベーゼソースのパスタのおいしさに衝撃を受けた。

ホテルマンになりたくて専門学校、さらに語学留学。しかしホテルの仕事に熱中できなかった。

僕は静岡県の静岡市で生まれ育ちました。静岡の男の子といえば、サッカーです。僕も中学校まではサッカー少年として、毎日のようにサッカーに明け暮れていました。一緒にプレーした仲間には、その後Jリーガーになった人も多く、そういう選手たちは小学校の時分から、全くレベルが違いましたね。周りに才能あふれる選手が大勢いた環境でしたので、サッカー選手として身を立てるという気持ちはなかったものの、真剣にボールを蹴っていた日々は、いまも良い思い出です。高校に入学し、自分の将来についていろいろ考えるようになったころ、あまり勉強が好きじゃなかったし、大学に進学するよりも、早く働きたいと思っていました。そのとき夢見ていた仕事が、ホテルマンでした。

ホテルマンになりたくて専門学校、さらに語学留学。しかしホテルの仕事に熱中できなかった。

高校卒業後はホテルマンを養成する専門学校に入り、2年目は休学し、英語力を磨こうとアメリカのバークレーに語学留学もしました。帰国してさらに1年勉強し、卒業後に長野県にあるホテルに就職しました。実は東京にあるホテルもいくつか受けたのですが、どこも採用されず、長野のホテルに入社せざるを得なかったという、正直言って自分としてはどこか不本意な気持ちもありました。東京への憧れと、ここで働いていて本当にいいのか、という迷い。そんな気持ちを抱えて休みのたびに上京し、都内の有名ホテルを見て歩いたり、メインダイニングを食べ歩いたりしていました。そのころ見たホテルのレストランで働くサービスの方々の姿が、すごく格好良かったんですよね。東京のホテルのメインダイニングや、フレンチやイタリアンの有名レストランで、サービスのプロとして働くのもいいなぁ、面白そうだなぁと、気持ちがだんだん傾いていきました。ちょうどその頃、働いていたホテルの料理長が「サービスの仕事をするなら、料理も作れないとダメだよ」と仰っていたのを聞き、そのとき「なるほど」と感じました。そう思ったら決心がついて、すぐにホテルを辞め、東京に向かっていました。

サービスのプロを目指して上京。イタリアンレストランで働き始めたものの、すぐに挫折。

すぐに訪ねたのは、麻布十番のイタリアンレストラン、当時の『クチーナ・ヒラタ』オーナーシェフだった平田勝シェフでした。まだ学生の頃、平田シェフについて書かれた本を読み、たいへん感銘を受けて、就職活動中に会いに行ったことがあり、その縁で半ば押しかけるように伺ったのです。ありがたいことに姉妹店の『ヴィノ・ヒラタ』で雇っていただけることになりました。そのとき出会ったのが、のちに僕の人生の師匠という存在になってくださった、現『ピアット・スズキ』の鈴木弥平シェフでした。ただそのときは料理人の勉強をするという気は全く無く、表の仕事(サービス)を覚えるために、料理のこともちょっと見てみよう、という程度の気持ちでした。

サービスのプロを目指して上京。イタリアンレストランで働き始めたものの、すぐに挫折。

『ヴィノ・ヒラタ』で働き始めた頃は、僕にとって初めてのヨーロッパ文化との出会いの時期でした。鈴木シェフが話すイタリア語はちんぷんかんぷんだし、なんか泡が立っている水を飲んでいるし(笑)、ガーリックやイタリアのチーズの香りまで、とにかく見るもの、感じるもの全てが新鮮。生まれて初めてコックコートを着て、皿洗いをしながら毎日、厨房の中の仕事を見ていると、大の大人が汗水たらして本当に真剣に料理を作っているんですよ。それこそパスタ一つ茹でるにも真剣なんです。シェフはすごい、なんてカッコイイんだと、僕は圧倒的に感動していました。その反面、僕はサービスのプロを目指してここに来ているはずなのに、だんだんその仕事の大変さ、難しさに気づき始めていました。自分には無理じゃないか、と。サービスの仕事というのは、まず頭が悪くてはできません。しかもお客様のクオリティが高ければ高いほど、その方々の心理を読んで嗅ぎ分けて、適切な対応のできる能力が必要なんです。それが完璧にできた上での、どのワインしますか、この料理はいかが、という話が成立する仕事です。はっきり言って料理の仕事よりも何倍もたいへんな仕事だと思います。そういう人と人との信頼関係の大切さを徹底的に、手厳しく仕込まれるうちに、自分には無理だとギブアップしてしまったんですよね。店に入ってまだ3~4ヶ月でしたけど、半ば逃げるように店を辞めてしまいました。いま振り返れば、鈴木シェフに頭を下げて「料理人としてやり直したい」と頼み込むこともできたかもしれないけど、そのときは声をかけることもできず、逃げ出すしかなかった。僕にとって人生初の挫折、です。そこまで挫折したことがなかったので、当時はひどく落ち込み、人生の汚点とまで感じていました。でも今思えば、それがかえって良かったのかな、と思います。若いうちに挫折を経験し、それを乗り越えたからこそ、次の道が拓けていったと思うんですよね。

当たり前のことを毎日当たり前に続ける。その大切さを知ったことが今の僕に生きている。

その後僕は、料理人の勉強をしようと、銀座にある老舗洋食店『煉瓦亭』に入りました。日本で初めて洋食を提供した歴史ある店で、一から料理を教えてくれるというので、いちばん下っ端として、ゴミ出しや洗い場を担当し、新たな道を歩み始めました。しかし働きながらも、常に頭の中には「また鈴木シェフと仕事したい」という強い思いがありました。イタリアとかフレンチとか料理云々じゃなくて、人間として尊敬できる人だから、また一緒に働きたい、という気持ち。それぐらい僕にとって強烈な印象を与えてくださった方でしたからね。それで自分からコンタクトを取り、相談なく店を辞めたことを心から謝罪しました。そのころ鈴木シェフは毎朝築地に仕入れに行っていたので、僕も毎朝一緒に付いて行って築地に通いました。それは『煉瓦亭』で働いている間、3年ぐらいかな、続けました。 そして25歳の時、再び『ヴィノ・ヒラタ』で働くことになりました。店では僕より年下のスタッフが、もう料理を作っていましたけど、たとえ復帰した身でも、一からのスタートです。この世界は入った者順の、しっかりとした縦社会ですからね。鈴木シェフからも「大事なのは下積みだ。どれだけ長い間、下積みを経験しているかが大切だ」と常日頃から教わってきましたので、ずーっと皿洗いでした。いま思えば、僕のことを試していたんでしょうね。

当たり前のことを毎日当たり前に続ける。その大切さを知ったことが今の僕に生きている。

2002年に鈴木シェフが独立され、僕も『ピアット・スズキ』に一緒に移ったあとも、まだ皿洗いでした。本音を言えば、やっぱり嫌でしたよ(笑)。だから『アイアンシェフ』に出た時も言いましたけど、「料理修業の98%は皿洗いでした」というのは嘘偽りありません。本当です。料理っぽいことをやらせてもらうようになったのは、2006年ぐらいからかな。この店『トラットリア ケ パッキア』を始めるたった3年ほど前です。その3年間も料理を教わったという記憶はありません。教わったのは挨拶やお礼をきちんとすること、使った道具はきれいにすること。あとは当たり前のことを当たり前にやる、それだけですね。それだけ教われば料理も、できるようになっていくものなんです。いちばん大切なのは人間性、人としてどれだけ成長できるかなんですよ、それだけは叩き込まれましたね。 今回お教えする料理は、最初に『ヴィノ・ヒラタ』で働き始めたころの思い出の料理『タリアテッレ ジェノベーゼ』です。地方に育ち、本格的なイタリア料理を知らなかった僕が調理場に入り、初めて嗅いだイタリアの香り、ガーリック、バジリコ、チーズのミックスした香りに衝撃を受けた料理なんです。初めて食べたときは「世の中にこんなにおいしいものがあるのか!」と感動しました。具としてインゲンとジャガイモも入り、ひと皿で完結する“ピアット ウニコ”であり、貧しい料理“ボーヴェラ”なんて呼ばれることもあるけど、僕はこれぞイタリアの味、と思っています。

タリアテッレ ジェノベーゼ

タリアテッレ ジェノベーゼ

コツ・ポイント

ペーストを作る前に、ミキサーの容器を冷蔵庫で冷やしておく。そうすることでバジリコの葉の変色を防ぎます。 ペーストとパスタを和えるとき、バジリコは温度で黒く変色してしまうので、決して火にかけないこと。

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