ピックアップシェフ

吉武 広樹 Restaulant Sola paris  多彩な経験で得たエネルギーを「料理」という形に。「料理」は自分の生き方そのもの

若い料理人が競い合う【RED U-35】2014王者。 天性の負けず嫌いと情熱で、料理人の階段を駆け上る。

美味しい料理はテレビを見て味わっていた幼少時代。そして坂井シェフとの出会い。

僕は佐賀県伊万里市出身で、両親は共働きでした。食事の支度をするのはいつも祖母。ですから子供の喜びそうなエビフライやハンバーグではなく、煮込み系が多かったですね。
料理というものを最初に意識したのはテレビです。当時の人気番組「料理の鉄人」が大好きで、美味しい料理はテレビを見て味わっていました。でもまさか将来自分が料理人になるとは、思いもしませんでした。上京して美容師になろうと漠然と考えていた時、幼なじみに「福岡の調理学校に一緒に進もう」と誘われ、流れのままそうすることに。調理学校在学中に予期せぬサプライズが!なんと「料理の鉄人」に出ていたあの坂井宏行シェフが、学校に講師でやってきたのです。シェフの周りには大勢の人が集まり、皆の視線をこれほど惹きつけるなんてと驚きました。その様子に感化され、思わず先生に「坂井シェフのお店で働きたい。」と宣言してしまいました。もちろん即却下。ところが負けず嫌いの僕は「何としても」と粘りました。再度先生に坂井シェフへの面接の申し入れをお願いしたところ、「明日東京にいらっしゃい。」との返事。すぐに飛行機に飛び乗りました。「坂井さんは熱い人だから、握手は強く。」との先生のアドバイス通り、憧れのシェフと顔を合わせた瞬間、渾身の力をこめてギュウッと手を握りました。この熱い握手以外、面接の内容は覚えていません。

美味しい料理はテレビを見て味わっていた幼少時代。そして坂井シェフとの出会い。

大所帯での忍耐力を身に着けたラ・ロシェル、個々の重責を担ったル・ピラット。

それから間もなく、坂井シェフの「ラ・ロシェル」で仕事を始めました。まず驚いたことは、シェフの人柄です。当時、4店舗以外に何十店舗と監修しており、相当な数の料理人が働いていましたが、全員の名前を覚えていて、会ったら必ず握手し、「元気でやっているか」と声をかけてくれるのです。あれだけのトップの人でありながら、末端のスタッフにまで気遣う。人に配慮できるからこそ、料理や素材にも気遣いできるのだと確信しました。また忍耐力も身につきました。勤務は週に6日間、朝7時半から夜中0時まで。休みはお盆に1週間と、年末に1週間。これをこなすだけでも相当な忍耐力が必要です。また調理場30名、ホールを含めると60名のスタッフがいる中で、自分を押し出すのでなく、お店がうまくまわるための歯車の一つになることを教えられました。自分が抜きんでたいという思いを抑え、与えられた場所をきちんとこなし、情熱を注ぐことが店全体のためになり、お店がよくなれば各自のためにもなる、という考えです。仕事は正直きつかったですが、負けず嫌いなので、僕はバイク通勤で転倒した日でも、足を引きずりながら無欠勤で働き続けました。
3年働いた後、小さいお店も経験してみたいと坂井シェフに相談し、ラ・ロシェル出身で独立されたシェフがオープンした「ル・ピラット」を紹介されました。こちらはすべてが一変し、40席のお店をシェフとマダムと僕の3人で切り盛りするスタイルです。買いだしも分担し、原価計算やメニュー設定もシェフとともに行いました。シェフ同様の責任感が問われた「ル・ピラット」での3年間は「ラ・ロシェル」時代とはまったく異なり、この双方での経験が、将来自分が独立する上でのよい指標となりました。

大所帯での忍耐力を身に着けたラ・ロシェル、個々の重責を担ったル・ピラット。

包丁とまな板を背負って敢行した世界一週旅行で、目にした想定外の料理。

「ル・ピラット」を辞めた後、世界一周しようと思い立ち、資金をためるために派遣会社に登録しました。そして約半年間、昼は居酒屋、夜は割烹、翌日はタイ料理、夜はポルトガル料理など、毎日異なる料理店で学びながら働きました。バイト代で航空券を入手し、包丁とまな板、調味料を背負い、バックパッカーの聖地、バンコクのカオサンロードからいよいよ世界一周の旅がスタート。行く先々で様々な料理を作りながら旅を続けました。カンボジアでは、ゲストハウスのオーナーが所有するレストランのスタッフに、親子丼やマーボ茄子丼など日本の料理を教えたこともあります。またタイの奥地では、知り合った日本人の結婚式のために、約50名分のテリーヌとロールキャベツを作りました。冷蔵庫とコンロが1台ずつと他に何もない状況です。テリーヌはさすがにコンロ1台ではできず、町のパン屋さんに火をお借りし、町ぐるみで料理を完成させたのはよい思い出です。
そしてこの世界周遊最大の衝撃は、何といってもフランスでした。先輩が働いていたパリ郊外の1つ星店「レ・マニョリアス」に、荷物を背負って一晩だけ手伝いに行ったのですが、目にしたのは化学的な料理と最先端の調理器具の数々。どう扱ってよいのか、ただ茫然とするだけで何も手出しができませんでした。ここには当時、すでにガストロバックが2台ありましたし、エスプーマを使った泡状の料理を出すなど、日本でまだ浸透していなかったエル・ブジの流れを汲む分子的調理法を取り入れ、人気を博していました。他国では想定内の料理だったので臨機応変に対応できましたが、「レ・マニョリアス」では知らないことばかり。このまま知らないままではいられないと、居ても立っても居られなくなり、一度帰国したものの、再び渡仏しようという強いモチベーションになりました。 (後編へ続く)

包丁とまな板を背負って敢行した世界一週旅行で、目にした想定外の料理。

どんな人も笑顔になる、赤パプリカと海老のココナッツカレー

私が世界を回った経験を活かした料理として、今回はカレーをご紹介します。日本人は特にカレーが大好きですし。これは昔、僕らしいカレーを作ってほしいとお願いされた時に生まれたレシピです。カレーの国インドやアジアの国々をくまなく回って得た知識と経験を元に作りだしました。
実は僕はパプリカが苦手なのですが、こうすると食べられるのです。また昨夏、福島に被災地支援に行ったときも、このカレーを作りました。子供から大人まで、あらゆる方が喜んでくださいました。カレーに年代や性別などの壁はありません。レッド‐カレーやイエローカレーペースト、ココナッツペーストのほか、もしかしたら日本での入手は難しいかもしれませんが、マッサマン・カレーペーストを入れるとより風味豊かな仕上がりになります。

赤パプリカと海老のココナッツカレー

赤パプリカと海老のココナッツカレー

コツ・ポイント

パプリカを炒めるときは、バターと一緒に蓋をしながらゆっくりと炒めます。 野菜自身の持つ水分で優しく火を通すことで本来の野菜の持つ味を引き出します。 海老は強火で表面をさっと焼き、海老の香ばしさを引き出しましょう。 弱火では全体的に火が入りすぎ、硬くなってしまいます。

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