ピックアップシェフ

榎本 哲 ドミニク・サブロン 毎日フルに頭と体を使って働きながら その世界のトップを目指せる仕事と選んだのがパン職人だった。

パンの持つうまさを、より味わえるフランス版オープンサンド、タルティーヌ。

“生き物”を扱うパン職人ならではの難しい技術にチャレンジしてみたかった。

僕は東京都の北区十条で育ちました。ウチの家族は、ひとことで言えばスポーツ一家。陸上競技で全国大会にも出場した経験のある祖母の血を受け継いだのか、姉と僕はスポーツが得意で、姉はスポーツ・インストラクターになりましたし、僕も幼稚園から始めた水泳を、高校卒業まで熱心に続けていました。そろそろ卒業後の進路を決める時期になると、お世話になっていたスイミングスクールから「うちで指導者をしながら、競技を続けたらどうか」というありがたい話もいただきました。でも、自分ではわりと冷静に能力の限界を感じていて、このまま続けても一流選手にはなれない、かといって、自分には会社勤めは性に合わないことも分かっていました。一日中デスクに座っている仕事よりも、少々キツくても体を使う仕事をしたい。生意気なようですが、誰かに勧められた職業に就くのではなく、自分の力で探したい、決めたいと思っていました。

“生き物”を扱うパン職人ならではの難しい技術にチャレンジしてみたかった。

18歳の僕が、漠然とカッコイイと憧れていたのは、職人の世界でした。そのときふと浮かんだのが、パン屋さんの仕事。ウチの近所に、僕が子供のころから買いに行っていたおいしいパン屋さんがあり、いつもいい香りが漂っていたのも、動機になったのかもしれません。その店のパンの耳が好きで、お腹が減るといつもパンの耳をかじっていたことも、懐かしい思い出。いまもフワフワのパンより、ハード系パンのクラストの味わいが好きなのも、そのおかげかもしれません(笑)。いろいろ調べていくうちに、同じ食の仕事でも、パン職人は料理人の中でも、かなり特殊な技術が必要だとわかりました。なにしろ発酵という独特の工程がある“生き物”を扱う仕事で、そう簡単にはうまくいかない技術だと感じたので、チャレンジのしがいがあると思ったんですよね。高校生活最後の水泳大会を終えた直後には、すっかりパン職人になると決心していました。両親には「高校出たら専門学校に行って、パン職人になる」って、全て事後承諾で伝えて。かなり驚いたと思いますが、家具職人をやっている叔父がいるので、親たちも職人の世界の厳しさはよく知っています。たぶん僕には長続きしないだろう、とりあえずやらせておけ、と思ったのか、全然反対されませんでしたね(笑)。

“過去最高の新人”と褒められ天狗になっていた僕は、井の中の蛙だった。

製菓の専門学校でパン作りの技術を1年間学び、僕は大手のベーカリーに入社し、池袋の店で3年間働きました。その店はインストア・ベーカリーとしては、当時、日本でいちばん大きなオーブンを持つ店で、とにかく常に忙しい店でした。どちらかといえば時間をかけてこだわりのパンを作る店ではなく、大衆的なパン屋さんで、パン作りの基礎の技術を学べたのはとても良かったです。とはいえ、僕は下っ端ですから、最初の2年はずっと仕込み担当。でも毎日生地をこねるだけでは物足りないので、自分の仕事を早く終わらせ、先輩の仕事を手伝わせてもらって、焼きの仕事も覚えていきました。手伝うためにオーブンの温度とか焼きの時間とか、自分で勉強できるところは全て事前に頭に入れた上で、やらせて欲しい、とお願いして。そういう姿を見て、先輩もどんどん仕事を任せてくれるようになりました。そうやって全ての工程の仕事を覚えていき、3年目からはメインの職人として、バンバン焼かせてもらえるようになり、毎日フランスパンだけでも1000本ぐらい焼いていました。そこまで頑張れたのは、学べることは全て習得してみせる、という強い気持ちでした。ここの職人で終わるつもりもなく、自分としては“ステップ1”のつもり働いていた店でしたから、いま目の前にある仕事を、完璧にこなしていくことに毎日集中した3年間だったと思います。

“過去最高の新人”と褒められ天狗になっていた僕は、井の中の蛙だった。

そろそろ次の仕事をしたいと思ったとき、都内の有名なパン屋さんをいくつか訪ね、パンを食べてみたんですが、ここでどうしても働きたいと思ったのが、現在『シニフィアン・シニフェ』のシェフブーランジェの志賀勝栄さんがいらした店でした。粉から作り方まで、たくさんのこだわりを持ったパン屋でした。バゲットも衝撃的においしかったし、自分もこういうパンをいつか焼きたい!と思いました。募集もしてないのに、いきなり電話して「働きたいんですけど」とお願いしたら、「いまは人手が足りているから、ちょっと待ってくれ」と言われました。そのとき「必要な時は必ず呼ぶから、それまでここで働いたらいい」と紹介されたのが、代官山の『パティスリー・マディ』でした。その足ですぐに面接に行き、翌日から働きました。前の店では“過去最高の新人”なんて呼ばれてチヤホヤされ(笑)、それなりにパン職人として自信があったのですが、井の中の蛙だったなと思い知らされましたね。マディには10ヶ月ぐらいお世話になりました。最初、サンドイッチの担当になり、さらに賄いも作ることになったので、いままでやったことのない“料理”に目覚めるきっかけにもなった店でした。今回お教えするフランス風のオープンサンドイッチ、『タルティーヌ』もそうですが、『ドミニク・サブロン』の月替わりのパンのランチボックスとか、サブロンのパンを使ったアレンジ・メニューを考えるのが面白くて大好きな仕事なんですが、それも『パティスリー・マディ』での経験のおかげだと思っています。

パンが焼けるだけでは半人前。チームをまとめ、信頼されるリーダーを目指して。

24歳になった僕は、ついに憧れの志賀勝栄さんに呼ばれ、『パティスリー・ペルティエ赤坂店』で、働くことになりました。シェフブーランジェを任され、責任を感じながらも、自分がいちばんおいしいと思った店で働いているので、毎日がすごく楽しくて一生懸命パンを焼いていました。志賀さんのもとで約5年間働きましたが、いちばん叩き込まれたのは「妥協しないこと」ですね。その5年間でパンに対する考え方もずいぶん変わりました。いちばん驚いたのが、どんなにパーフェクトなパンを焼けてもシェフとしては100点満点の50点、残りの50点を取らないとダメ、という考え方。残り50点というのは、例えば人をまとめる力、リーダーシップ、信頼関係を築く能力やコミュニケーション力、だと思いますけど、それができない人間は、シェフとしてはやっていけないと言われ、かなりガーンときました。

パンが焼けるだけでは半人前。チームをまとめ、信頼されるリーダーを目指して。

シェフになるまでの僕は、ひたすら職人として自分の力をつけていけばいい、他人のことなんか知らねーよ、先輩を蹴落としてトップに立つ・・・みたいな考えしかしていなかったですからね(笑)。でもシェフとしていざトップに立ってみると、結局、ひとりでは何もできない。チームとしてやっていく上で、おいしいパンを作るには、リーダーとしてこうやるべき、ということが少しずつ分かってきたんですよ。それに気づいてからは、若いスタッフと積極的に話しをしたり、食材のお取り引き先や厨房関係の職人さんとも、良いつき合いをするようになっていきました。パンだけでなく、様々なことを勉強させてもらった5年でしたし、志賀さんから受けた影響はすごく大きいと思います。おかげで新しいブランド店舗の立ち上げで、2004年の『フォートナム・アンド・メイソン』の各店舗のオープン事業を任され、精一杯できました。現在携わっている『ドミニク・サブロン』でも、まだまだやりたいことがいっぱいです。自分から新しいものを生み出す楽しさ、っていうのかな、それが可能なこの仕事を、心から素晴らしいと思っています。

ブリーチーズと生ハムのタルティーヌ

ブリーチーズと生ハムのタルティーヌ

コツ・ポイント

最後にオーブンで焼くので、スライスしたパンは、片面だけ焼けばよい。ブリーチーズの代わりに、シェーブルチーズを使うと、よりフランスっぽい味になります。

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