ピックアップシェフ

山田 チカラ 山田チカラ 日本でもスペインでも、常に生活に変化を求めながら料理のあり方を模索してきた。

十代の時思い描いた「とにかく海外に出たい」という夢を叶える入口が料理人だった。

大学に進学するよりも、海外に行って自分の力で生きていくことだけを考えていた。

私は静岡市の出身で、飲食業とは全く無縁の家庭で育ちました。
小さい頃はごく普通の子供でしたよ。大学進学を望んでいた両親の方針で、中高一貫高の私立中学を受験して合格し、6年間を過ごしましたが、一流大学への進学を第一に考えている進学校の校風や真面目なクラスメイトの中では、かなり異端児だったと思います。大学に行くために親に入学させられた環境に少し反逆というか、反抗していましたね。テストを白紙で提出したりとか、家にほとんど帰らなかったりとか(笑)。それでも落第することなく卒業できたので、要領は良かったのかもしれません。
当時の多感な時期、一緒につるんだり、遊んだりするのはもっぱら他校の生徒や大学生、社会人ばかりでした。
不良という感じではなく、もっと冷めていたし、ひねくれていたと思う。それでも興味があること、一緒に音楽をやったり、文学について学校外の仲間と語ったりするのが本当に楽しかったんですよね。それ以外の時間はアルバイトに明け暮れていました。飲食業のバイトの他、様々な仕事をしました。
その頃から、漠然と、いやもっと明確にかな「将来は海外に行って、自分の力で生きていく」という目標を定めていました。というのも1990年前後に若い世代に大きな影響を与えた沢木耕太郎さんの本『深夜特急』の影響が大きかったんですよね。
いよいよ高校3年、進路をどうするという時期になり、両親にも先生にも「大学へは行かない。働く」と伝えました。先生には大学受験をしないのは開校以来僕が初めて、と言われました(笑)。だから働き口も自分で探し、知り合いに紹介していただいたのが熱海の『大月ホテル』内にあるフレンチレストラン『ラ・ルーヌ』でした。なぜレストランだったのか、それは海外に行けるという淡い期待があったからです。

大学に進学するよりも、海外に行って自分の力で生きていくことだけを考えていた。

包丁を握ったこともないのにレストランへ。立ち方から教わるゼロからのスタート。

それまで包丁すら握ったことがなかったので、レストランに入った当初はまず、包丁のにぎり方や厨房での立ち方から教えてもらいました。そして鍋や食器の洗い方と、細かい仕事をいろいろやらせてもらいました。食材をさわれるようになるのは、まだまだ先の話です。
僕なりに料理の世界のイメージはありましたけど、とにかく覚えることほとんどが未知の世界。新鮮でしたね。この仕事に向いているとか向いてないより先に、知らない世界を知ることに満足していました。
もちろん店では上下関係があるし、ときには厳しい職場でしたけど、その苦労する感じにワクワクしていました。「オレ、頑張ってる」みたいなね(笑)。だから辛いとか逃げ出したいと思ったことは一度もなかったです。
いまに至るまでお世話になっている、当時の『ラ・ルーヌ』料理長・齋藤元志郎さんはとても面白い方で、料理人をほかの店に仕事に行かせるんですよ。半年とか1年、よその店で仕事をさせて、『ラ・ルーヌ』にまた戻すんです。私も入って3年後ぐらいにはもう“ストーブ前”を任されていたので、東京へ行って来い、と送り出されました。
最初はイタリア料理とフランス料理の店4、5軒で働きました。そのころ東京はイタリアンが再ブームになっていて、かなり活気がある時期。どこの店もすごく忙しかったですね。
そして再び『ラ・ルーヌ』に戻りますが、まもなく齋藤シェフが店を辞めて独立することになったので、僕も同じ時期に店を辞めました。ちょうど東京で知り合ったイタリアンのシェフが神戸で店を始めるときに声をかけていただき、静岡から神戸に移りました。しかしその店は1994年の年末にオープンしたものの、年明けすぐに神戸の大震災に遭ってしまいました。店はしばらく休業になってしまったので、再び静岡に戻り、齋藤さんの店『旬香亭』で働かせていただきながら、いよいよ念願の海外渡航準備を進めていました。

包丁を握ったこともないのにレストランへ。立ち方から教わるゼロからのスタート。

25歳でオーナーシェフに。店は順調、収入も十分あったが変化の無い日々に終止符。

スペインに渡ったのは23歳の時です。なぜスペインかといえば、イタリアンもフレンチも日本である程度経験していたので、全く知らなかったスペインに行ってみたかったんです。というより、目的のうち料理は半分ぐらい。スペインという国自体と人々を見てみたいという気持ちも大きかったですね。当時いちばん安かったアエロフロート航空に乗り、モスクワ、パリと乗り継ぎ、パリからバルセロナまでは『深夜特急』さながらに列車で移動しました。
言葉もできなければツテもないので、求人誌を見て飛び込みで店を訪ねても、まともに雇ってくれるはずもなく。幸い、贅沢しなければ1、2年は暮らせるほどの貯金があったので、無給でもいいからと頼み込み、バールやレストランで働くことになりました。日本食レストランの仕事も見つかり、掛け持ちして働いていました。
しばらくすると日本人のオーナーが急死され、残された奥さんから店を買って続けて欲しいと頼まれました。その当時、物価が安かったからできたことですが、買えたんですよ。25歳までに自分の店を持つという目標が、早くも叶ってしまったんです。
自分の好きなように作り変え、料理もいわゆる日本食レストランではないメニューを出したその店は、とても繁盛しました。バルセロナは建築家の卵とかフォトグラファーとか、ヨーロッパ各国から若いアーティストが集まっている街ですが、そういう人々に支持され、瞬く間に人気のレストランになりました。
半年後には2軒目の店、日本酒を楽しめるバールスタイルの店を出しました。あえて店名もつけずにオープンしたその店は“チカラがやっている店”ということだけで浸透し、スペイン人だけでなく日本人も多く来てくれる店になりました。バルセロナにオフィスを構えている著名な建築家の方々にも来ていただきましたが、東京にいたら考えられないことですよね。
店は2軒とも順調だったものの、いつしか「このままでいいのか」という思いが湧き上がってきていました。嫌なんですよね、だらけてしまっているというか、刺激や変化がない日々が。それがつまらなくなってしまって、店を人に譲り全部引き払って帰国を決めました。この後再びスペインに渡ることになるんですが、第1期の滞在は5年間で終わり、日本に戻りました。   (後編へ続く)

25歳でオーナーシェフに。店は順調、収入も十分あったが変化の無い日々に終止符。

水がこんなにおいしく変わるなんて!と感動した「コンソメ」はいまだに大好きな料理。

今回お教えするのは「コンソメ」です。
フランス料理の基本中の基本でもあり、私が料理の世界に入って『ラ・ルーヌ』で教わった料理です。何も知らずにこの世界に入ったので、ただの水があれほどまでにおいしくなる料理に感動したというか、びっくりしたんですよね。作り方を覚えてからは、コンソメ当番のごとく毎日ひたすら作り続けていた思い出の料理でもあるんです。今でも得意な料理はなんですか、と聞かれると、「フォンや出汁をとることです」と答えるほど大好きです(笑)。
いくつかの大事なポイントを守れば、澄んだ美しいスープになりますので、時間のあるときに手間を惜しまず、丁寧に作っていただきたいと思います。まず肉を炒めるときにしっかりいい焼き色をつけること。この色がコンソメの色のもとになりますからね。そしてかき混ぜるタイミングも重要。沸騰する食前までかき混ぜてアクを集め、アクをきれいに引きます。さらに弱火でコトコト。火が強すぎて煮立ててしまうと乳化してスープが濁ってしまいます。
できたコンソメは冷凍保存できますので、氷皿で固めて保存、またはビニール袋で密閉して冷凍してもよいでしょう。インスタントではできない、本来の旨みが生きたおいしいスープを、ぜひご家族に飲ませてあげてください。

コンソメ

コンソメ

コツ・ポイント

かき混ぜるタイミングが重要。かき混ぜ続け、スープをわかし、具が浮いてきたら強火で沸騰する直前に弱火にし、かき混ぜるのをやめます。 最初の肉・野菜をこがすとスープに色が付きます。 時間のある日に、半日かけてゆっくり作ってみましょう。

レシピを見る

  • facebookにシェア
  • ツイートする
  • はてなブックマークに追加
  • 文:北條尚子
  • 写真:キッチンミノル