ピックアップシェフ

飯塚 隆太 Restaurant Ryuzu (レストラン リューズ) フランス料理ならではのソースの魅力と、素材感をダイレクトに出すひと皿を。

ホテルでキャリアをスタートし、ジョエル・ロブションの元で12年間、自己の料理を確立。 実家は呉服店。小さい頃から母に代わって食

実家は呉服店。小さい頃から母に代わって食事を作り、お菓子まで焼いていた。

僕は新潟県十日町市の出身です。冬には2mから3mの積雪がある、日本でも有数の豪雪地帯で高校時代まで過ごしました。実家は古民家を再生した趣のある建物で呉服屋を営んでおり、小学生のころは日本の景気が良くてお客様が大勢みえ、店は繁盛していたようです。僕は姉と妹にはさまれた長男でしたけれど、当時将来店を継ぐことはあまり考えていませんでした。
両親は毎日忙しく働き、商談が夜になっても終わらないことが多かったので、僕がチャーハンなんかを作り、子供たちだけで食事をしてた事も多々ありました。小学生の頃そんなきっかけで始めた料理ですが、とにかく楽しかったんです。夕飯だけでなく、休みの日にはクッキーを焼いたりロールパンを焼いたりね。特にクッキーを敷き詰めた台から手作りするベイクドチーズケーキは、家族にも評判が良かったですよ。実はうちの母は乳製品が食べられず、食卓にのぼるおかずはほとんど田舎料理だったので、洋食への憧れがひと一倍強かったんです。ときどき料理上手な叔母が作って持ってきてくれたマカロニグラタンなどがすごくおいしくて心待ちにしていたほどです。その時は田舎の素朴な料理で育ったことが、後の料理人生に影響を与えることになるとは知る由もないですが・・・
将来はコックさんになろうかな、という話はしていましたけど、高校に入るまでは特にそれが目標でもなく、このまま大学に入って何かの仕事に就くんだろうな、くらいの漠然とした未来でした。
しかし高校に入学した途端、ほとほと勉強をするのがつまらない。さて、どうしようと思ったとき、十日町でケーキ屋を営んでいたパティシエさんに「男は手に職をつけたほうがいいぞ」と言われ、そのとき、料理人になろうと決めたんです。目標を高1の夏休みに決めたので、もう勉強なんかしませんよね(笑)。すぐに地元の人気店だった洋食屋でアルバイトを始め、学校の授業は寝ている、みたいな生徒(笑)。それでも落第することなく無事に卒業し、大阪の調理師専門学校へ進みました。

実家は呉服店。小さい頃から母に代わって食事を作り、お菓子まで焼いていた。

同期の料理人にやっかまれるほど、くそ真面目に仕事に没頭していたホテル修行時代。

専門学校に入るまではフランス料理とはこういうもの、という知識は全くなかったのですが、将来自分の店を持ちたいという目標だけは抱いていました。専門学校では高校時代と打って変わって真面目な生徒でした。西洋料理のクラスでは絶対トップになってやると目標を立て、毎日とにかく一生懸命に学んでいました。学生時代はアルバイト先のビアレストランの寮に住み込みで働いていたので、夜遅くまで働いて朝一番に学校に行き、オムレツの練習やじゃがいものシャトーむきや包丁研ぎなどの調理技術を真剣に磨いていたのも、いい思い出です。
就職を考えるときは、迷わずフランス料理に決めました。というのもフランス料理のソースのバリエーションの多さ、複雑さにとても魅力を感じていたからです。就職先はホテルか町場のレストランか悩みましたけど、ちょうどそのころは新規ホテルのオープンラッシュだったので、『第一ホテル東京ベイ』(現『ホテルオークラ 東京ベイ』)に就職しました。厨房のスタッフはほとんど新卒の同期が25、26人。その上は30歳以上のベテランで、中間の層がいなかったんです。だから新人とはいえ、仕事を覚えればすぐに大事な部門を任せてくれたのです。僕もすぐに“ストーブ前”を任されました。いきなり、ですよ(笑)。
必死にフランス料理の本を読んで頭に叩き込んで、すぐにそれを厨房で実践するという。でも運が良かったと思います。半年後には大事なフォン・ド・ボー、フュメ・ド・ポワソン、コンソメ・・・と、どんどん仕事を任されるようになっていました。そうなると一部の同期達からの嫌味、やっかみも聞こえてきます。“お前だけいい思いをしやがって”という。そう突っ込まれるのは分かっていたので、反論しないで黙々とごみ捨てなどの人が嫌がる仕事も率先してやっていました。たとえごみ捨てでも、クソ真面目に高い意識を持ってやっていたのは確かです。
『第一ホテル東京ベイ』には3年半お世話になりました。その間、キャリア4年未満の新人料理人のコンクール『プロスペール モンタニエ』でグランプリを取ることができました。そのとき次のステップに移りたいと思い、幕張の『ホテル ザ・マンハッタン』のオープニングスタッフとして就職しました。

同期の料理人にやっかまれるほど、くそ真面目に仕事に没頭していたホテル修行時代。

やっぱりフランスに行かないと始まらない。28歳で料理人修業の仕上げとして渡仏。

しかし運悪くバブル景気がはじけ、ホテルでの仕事は時間に余裕がでるようになってしまいました。もっと忙しいところで働きたいと、移ったのが渋谷の『レストラン ロアラブッシュ』です。当時のシェフ、大渕康文氏のもとで研修させていただいたことがあったので、働かせて欲しいと頼み込んだんです。『ロアラブッシュ』にいたのは8ヶ月程でしたけど、いちばん影響を受けたのは大渕シェフの料理だと思いますし、オマールのソースの味などは、いまも敵わないですね。僕がフランス料理に求めるおいしさは、『ロアラブッシュ』がお手本になっていると思います。
その後、2ヶ月ほど短期滞在でフランスに行きました。1ヶ月は研修に当て、残りの1ヶ月はフランス各地の食べ歩き旅行です。その後働くことになる『メゾン トロワグロ』など、2つ星、3つ星の有名レストランをひと月で27軒食べ歩きました。
『横浜ロイヤルパークホテル』のオープニングスタッフとして1年間働いた時に、ちょうど恵比寿にオープンする『タイユバン・ロブション』が募集していることを知り、すぐに応募し、メインダイニングに配属されました。そこでまず肉料理のセクションを担当し、無二の親友となる渡辺雄一郎氏(現『ジョエル・ロブション エグゼクティブ・シェフ』と一緒に働きました。その後はつけ合わせ、オードブル、魚料理と2年半で全ての部門シェフを経験しました。日に日に思いを募らせていたのは「フランスに行かないとダメだ」という強い気持ちです。厨房内は全てフランス語のコミュニケーションです。フランス帰りのスタッフも多く、年に3回、ジョエル・ロブション氏もやってきます。仕事はできても言葉が喋れないと信用されないので、悔しい思いをしたことが何度もありました。
そんな頃、仲の良かった同僚の笹川幸治氏(『レストラン プティバトー』シェフ)が、「ベルナール・ロワゾーから雇ってくれると返事が来たからフランスに行く」と言うんです。僕も焦りました(笑)。すぐに食べ歩きしておいしかった店やミュシュランガイドを参考に30軒ほどに手紙を送り、『メゾン トロワグロ』からOKの返事をもらいました。そのとき28歳、念願のフランスに住み、 自分のフランス料理の仕上げの修業を全うするという新しい生活が始まりました。   (後編へ続く)

やっぱりフランスに行かないと始まらない。28歳で料理人修業の仕上げとして渡仏。

冬が旬のホワイトアスパラガスと、甘さが強いフルーツトマトのハーモニー料理。

今回お教えする料理は、まさに今が旬のホワイトアスパラガスの料理です。やっと最近、簡単にホワイトアスパラガスが手に入るようになりましたけど、僕の子供の頃は缶詰しかなく、あまりおいしいイメージはありませんでした。初めて生のホワイトアスパラガスを見たのは最初に働いたホテルでした。その当時はオランダ産の物を使っていたと思います。今はフランス産の良質な物も入りますし、国産物も出回るようになりました。
ホワイトアスパラガスといえば、オランデーズソースをかけて食べるものが定番ですが、せっかくフレッシュな素材なので、フレッシュさを残し、あっさりと食べていただけるように、フルーツトマトを刻んでソースにしたものをかけた料理にしました。おいしさのコツは、ゆで方ですね。アスパラガスはやや歯ごたえを残したゆで加減がおいしいと思います。むいた皮を入れて香りを移したお湯でゆでますが、いっぺんに入れないで、固い根元の方だけ先にゆでます。切り分ける前に冷ます間も、ゆで汁を含ませたペーパーで覆って下さい。こういうひと手間で素材のおいしさが生かされます。トマトは夏野菜のイメージですが、フルーツトマトは今の時期がもっとも甘みのある素材なんです。お互い美味しい時期の素材を合わせて旬の味を楽しんでいただけたらと思います。

ホワイトアスパラガスとフルーツトマトのアンサンブル

ホワイトアスパラガスとフルーツトマトのアンサンブル

コツ・ポイント

下処理とゆで加減がおいしさの決め手。ピーラーで穂先の下の部分から皮をむき、捨てずにとっておく。下の固い部分だけお湯に入れゆでてから、全体を入れ、歯ごたえを残した状態でゆであげます。切り分ける前に、乾かないようにそして予熱で火が入るように、ゆで汁を含ませたペーパーで覆ってください。

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