ピックアップシェフ

下村 邦和 SHIMOMURA 愛情を込めて丁寧に作れば、なおおいしいおふくろ味の唐揚げと本格派ブリのアラ煮。

煮魚のおいしさに目覚めたきっかけとなった、ブリのアラ煮。

17歳から老舗懐石料理店で3年間修行し、和食の技術をほとんどマスターした。

中学卒業後、横浜の調理師専門学校で1年間学び、調理師免許を取得した僕は、海辺の町、茅ヶ崎の老舗懐石料理の店に就職しました。地元を離れたのは、地元の不良たちと縁を切り、離れた場所で仕事をしたかったからです。家族とも離れ、同期入社の同僚と先輩と3人で、店の寮に住み込み、いよいよ料理人としての修行が始まりました。そのお店『阿部浅』は100人単位の宴会もよく行われるような、茅ヶ崎一の大きな店でしたので、毎日とても忙しく、睡眠時間は毎日3~4時間。遊ぶ暇もほとんどありませんでした。海のそばにいながら、3年間、一度も海に遊びに行きませんでしたよ(笑)。週一回の休みの日にも、寮にこもって、大根のかつら剥きや天ぷらの練習をしていました。ライバルになる仲間が大勢いたので、負けたくないという気持ちが強かったんですよね。まだ下働きだったあるとき、あまりに忙しくて、先輩の手が回らなくなって、突然、天ぷらを揚げてくれ、と言われました。まだ天ぷらなんて揚げたことがなかったのですが、もう必死で揚げました。目の前に失敗した天ぷらが山のようになり、ちゃんと揚げられたもののほうが少ない、というありえない状態でしたので、うわ、これは怒られる、とドキドキしていたら、よし、よくやってくれた、と逆に先輩から感謝され、すごく嬉しかった思い出があります。『阿部浅』には3年間お世話になりましたが、修行先としても、人間関係も自分にとってはいちばん良かった時代です。あの3年がなかったら今の自分はなかったし、ああいうお店は、今の時代には、残念ながらもうないでしょうね。毎日、魚市場からピチピチの活きた魚介がどさっと届き、それをみんなで一斉にさばき、刺身や天ぷらにしていくような店です。その後働いた別の店では、天ぷらの具材といえば、既に開いて冷凍にしてある魚を揚げるだけでしたので、あまりの違いにカルチャーショックになったほどです(笑)。

17歳から老舗懐石料理店で3年間修行し、和食の技術をほとんどマスターした。

今回お教えする「ブリのアラ煮」も、『阿部浅』で僕が担当して作っていた思い出の料理なんです。まだ当時17、18歳ですから、煮魚なんてめったに食べない年齢です。でも、初めて食べてみたら、煮魚ってこんなにおいしいものなのか!って、びっくりしたんですよね。店の作り方は僕のレシピよりも水をたくさん入れ、砂糖と生姜を入れて煮ていき、最後に醤油で味付けする昔風の方法でした。僕のあら煮は、砂糖を使わず、みりんだけで甘さをつけ、調味料を煮詰めながら、あらにからめていきます。このほうがツヤも良く、味にキレが出ると思いますので、脂ののったカマなどいいブリのアラが手に入ったら、ぜひ、作っていただきたいと思います。

21歳で料理長になったものの、自分の料理に対して常に不安と焦りがあった。

ほかの場所でも働いてみたい、という理由で3年間働いた『阿部浅』を退職し、地元に戻った僕は、先輩の口利きで横浜の和食店を紹介され、否応もなく働くことになりました。19歳の時です。その店は先輩料理人のレベルも低く、下ごしらえ済みの冷凍魚介で料理を作るような店でしたので、阿部浅で身につけたこととあまりに違っていて、どっちが正しいのか分からなくなってしまいました。追い打ちをかけるように、圧力鍋の爆発で大ケガするという不幸に見舞われたり、さらに僕の給料の一部が紹介者に送られていたという理不尽な事実を知り、ケンカして辞めてしまいました。その後、縁あって横浜の別の和食店で働き始めますが、そこで21歳で料理長を任されることになりました。僕の腕を見込んで料理長に抜擢してくれたことに感謝しながらも、実は心のどこかに常に焦りがあるような日々でした。この五年間、ひたすら無我夢中で働き、料理人として技術は身につけたものの、いま自分が作っているものは正しいのか、間違っているのか、教えてくれる“師匠”がそばにいないので、誰も教えてくれないことが、とても不安だったんです。でも、その不安を少しでも解消するには、自分で勉強するしかないんですよね。帰宅してから、和食の本を何冊も読んで独学で知識を深め、休みの日には日本料理店に限らず、イタリアンでもフレンチでも、評判の店を次々に訪ねて、食べ歩いていました。それも大事な勉強でした。

21歳で料理長になったものの、自分の料理に対して常に不安と焦りがあった。

まだ21歳でしたので、たとえば都内の有名店とか、日本料理では格が上とされる関西の店に働きに行って学ぶ、という考えもあると思いますが、横浜よりもレベルが上だ、ということに反発する気持ちも強かったんですよね。それといいのか悪いのか、自分の性格上、どんな難題を言われても「できません」と言えない性分。不可能にちかいことを頼まれても「NO」と絶対言わず、とりあえず受けてから考えよう、動こう、っていうね。まぁ、そのおかげで人手が足りなくて、僕が寝ずに働くことになったり、経験のないスッポン料理を頼まれ、あわてて先輩に調理方法を習いに行ったり(笑)、自分の首を絞めたことも数えきれません。僕が「NO」という時は、その仕事を辞めるときだけです。総料理長とマーチャンダイザーを任され、29歳までお世話になった会社でしたが「新しく作る秋田県の店に行って欲しい」と懇願され、自分には無理だと思い、お断りすると同時に退社しました。

料理人として自分をアピールするために参加したコンテストで、見事に栄冠を掴んだ。

そのころ折しも、スタイリッシュな雰囲気の和食ダイニングバーが登場してきていた時期でした。僕は横浜のダイニングバーブームの先駆けとなった店を持つ会社に入社し、新しい店『関内本店 月』で料理長として働くことになりました。前の会社でも、いくつか新しい店の立ち上げやリニューアルを経験していたので、先頭に立って店のスタイルをゼロから作っていくことが、楽しくてしょうがなかったですね。というのも、新しい会社に入るのもそうですけど、それまでやったことのないことに、ドキドキしながら入っていくことが好きな性分なんだと思います。その店はおかげで人気店として一世を風靡するようになり、僕自身も料理長としての才覚が、回りに認められるようになっていきました。ふと気がつくと、いつに間にか20代の頃抱えていた焦りや不安のようなものも無くなっていました。とにかくやること全てがうまくいき、お客さんも入るし、面白い日々でしたね。30歳になってやっと、自分の仕事が自分自身で納得できるものになっていたのかもしれません。

料理人として自分をアピールするために参加したコンテストで、見事に栄冠を掴んだ。

ちょうどそのころ、料理コンテスト『日経レストラン主催全国メニューグランプリ』の存在を知りました。咄嗟に、もしかしたらこれは大きなチャンスになるんじゃないだろうか、と感じました。料理人としてもっと広く認められたい、自分の料理をアピールしたい、宣伝したいという気持ちが募り、応募を決めました。でも1回目、2回目は書類審査で落ちてしまい、やっと3回目に決勝戦まで進むことができました。自分では絶対優勝すると信じていましたが、結果は準グランプリ。そのとき悔しいというか、闘志のような気持ちがギラギラと沸き上がってきたことを覚えています。そして3年、ついに自信作『黒豚の黒煮』でグランプリを受賞することができました。37歳の時でした。
かねてから40歳になる前に何かしようと思っていた僕は、ついに独立する決心をしました。幸いグランプリでいただいた賞金や、他店のプロデュースなどで得たお金がある程度貯まっていたので、それを開店資金にしてお金を借り入れ、横浜・元町に自分の店『元町SHIMOMURA』を2009年5月にオープンさせました。元町という町の立地や、元町に来るお客さんが求めるものを第一に考えた新しいスタイルの和食の店です。しかし僕がいちばんやりたい理想の店の形とは違います。というのも、最初から自分がやりたいだけの店にしても、お客さんが来るとは限らないですからね。幸運なことに、僕の店は元町でも指折りの繁盛店になり、ずいぶん先まで予約で埋まるほどの人気の店になりました。そうするとまた新しいことをやりたくなるんですよね(笑)。そして新たに始めたのが別館の『志木葉 SHIKIHA』です。いわば『元町SHIMOMURA』はお客さんを呼べる店、対して『志木葉 SHIKIHA』は僕が本当にやりたい形の店、ですね。それぞれの個性を大事にしながら、元町で末永く愛される店になっていってほしいと思っています。既にいまは、次の店のことを考えています。実はラーメン屋を出したいので、物件を探しているところなんです。僕の作るラーメン、すごくうまいんですよ。毎日行列ができるようなラーメン店に絶対になりますから、期待してください。

ブリのアラ煮

ブリのアラ煮

コツ・ポイント

砂糖を使わないで味醂で甘みを加えることで、仕上がりも照りが出ると同時に、キレのいい味に仕上がります。煮汁をあらにからめていただくイメージで調理していきます。

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