ピックアップシェフ

篠原 裕幸 海鮮名菜 香宮  日本人の中華料理人が 世界で活躍できる環境をつくりたい。

日本の中華料理界を変えたいという志が、さらに高まった。

フランス料理のデザートをどうしても学びたくて『NARISAWA』の門を叩く。

28歳で香港に渡り、約2年間の修業をしました。実はその間、ビザの関係で帰国した際に、3か月間だけ成澤由浩シェフの店『NARISAWA』で研修させていただいたことがあります。どうして中華の料理人がフランス料理店に?と聞かれるんですが、フレンチのデザートをどうしても勉強したかったんです。中華のデザートと言えば、高級店でも町場のチェーン店の中華レストランでも、どこへいっても「マンゴープリン」か「杏仁豆腐」じゃないですか。それがつまらなかったんですよね。それで師匠の譚彦彬さんに相談したら、紹介してくださったのが『NARISAWA』だったんです。そのときの心境は「ええ! そんなすごいところに行っていいんですか」でした(笑)。私が入ったときは、今のように研修生を受け入れてはいなかったので、私一人だけだったと思います。快く受け入れてくださって、いまも感謝しています。チ-フパティシェの下について、スタッフ同様に働き、デザートをじっくり学ばせていただきました。
『NARISAWA』は、とにかく全てにおいて100%、全部がパ-フェクトでした。料理もサービスも厨房の中の仕事も店内のクリーンさも、ありとあらゆるもの全てが、です。店で働く人間は分かりますが、忙しさに紛れて、ときどきは緩みが出るというか、まぁいいか、と仕事することも無いとは言えないのですが、『NARISAWA』には、それが全然無かった。隅々まで手抜きなくきっちりと仕事する。その分、スタッフに課せられる厳しさも尋常じゃないと感じました。その後の1年間の香港修業よりも、『NARISAWA』の3カ月の方が、濃厚な時間だったかもしれません。

フランス料理のデザートをどうしても学びたくて『NARISAWA』の門を叩く。

帰国後『海鮮名菜 香宮』へ入店。翌年、念願の料理長に。

帰国した年の2011年、『海鮮名菜 香宮』のオープニングに、2番手として入りました。香港修業で広東料理をオールラウンドで学んで帰りましたけど、当時は「料理長になるにはまだ自信がない」という心境だったので、良い再スタートだったと思います。そして翌年、いよいよ31歳で料理長を任されることになりました。
実は料理長になった直後、第1回目、新時代の若き才能を発掘する日本最大級の料理人コンペティション『RED U-35』 (RYORININ’s EMERGING DREAM)に応募しているんです。しかし書類選考であっさり落とされてしまいました。なんだよ、オレ、全然ダメじゃん、と思いましたね(笑)。もう一度チャレンジしてみようと思ったのは、母の存在が大きかったですね。母は一昨年ガンが見つかり、手術して療養生活に入ったのですが、回復することなく昨年の3月に息を引き取りました。ガンが分かってから亡くなるまで、たった半年でした。私が18歳で家を出てからは、なかなか会うこともできず、でも常に陰から応援してくれた母でした。余命あとわずかと言う病床で、母と約束したことが「日本一の料理人になる」という新たな、そして大きな目標でした。
母の死後、店に出ていても気分が上がらず、仕事はいまひとつ、という状況でした。そんなとき、『RED U-35』の募集が始まり、ここでもう一度やってみようかな、と思い、応募しました。3年ぶりの再挑戦でした。前回エントリーしたときは、応募書類をどう書いたら分からなくて、知り合いの力を借りて書いたんですよ。でも今回は文章が下手くそでも、自分の言葉で正直に書こうと思いました。もうカッコつけるのは止めようって、決心したんです。嘘のない、ありのままの自分で挑戦していこう、って。その真っ直ぐな気持ちを2次、3次審査も貫き通しました。
3次審査の後、審査員との面接がありました。それでずっと考えていた気持ち「日本の中国料理界を変え、世界で活躍できる料理人になりたい」と答えました。しかし面接官の方は「そんなことは誰でも言っている。もう一度考えて、君を【RED EGG】にする理由を考えて送りなさい」と名刺を渡されました。頭を抱えましたね。しかしそれ以上のことが思いつかないので、また同じ内容のことを書いて送りました。そのときは、もう絶対にファイナルには進めないと諦めていました。しかし幸いにもファイナリストル6人(GOLD EGG)に残ることができ、心からホッとしました。

帰国後『海鮮名菜 香宮』へ入店。翌年、念願の料理長に。

アドバイスを受けず、自分のやり方で作りきった「上湯スープ」でグランプリ獲得。

ファイナルに残ったのはフランス料理4人、日本料理1人、そして中華料理1人と言う顔ぶれ。私としては広東料理の代表として残れたのも嬉しかったですね。この6人でディナーコースを作る、というのがファイナル審査のテーマ。事前に「スープを作りたい」と思っていたので、自分から「やりたい」と志願しました。食材の中に「軽井沢の黄金軍鶏」はあったので、「これなら最高の上湯ス-プが作れる、しめた!」と思ったんです。しかし狙っていた軍鶏はカチカチの冷凍状態で使えず(笑)、「信州ハーブ鶏」に変更して「上湯スープ」を作りました。
でもグランプリ(レッドエッグ)が取れるとは、全く思っていなかったので、発表の瞬間は、すごくうろたえていたと思います。本当にビックリしました。決まった後、一緒に戦った仲間たちには「自分ひとりの力で、自分のやり方で作りきったのは、篠原くんだけだったね」と言われ、祝福されたのもすごく嬉しかったです。グランプリをいただいたことで「日本人の中国料理人が、世界で働ける環境を自分が切り開きたい」という気持ちがさらに高まりました。
和食もフレンチもイタリアンでも、既に海外でシェフとして働ける環境があるのに、中国料理にはそれがないという現状があります。言ってみれば、日本人を働かせる理由が無いわけです。でもそれでは若い世代の料理人が、いくら頑張っても海外では働けないんだ、と思ってしまう。そんな環境のまま、料理人として終わるわけにはいかないので、それを可能にするのは自分しかいない、と思ってやっています。そのためにいろんな人と積極的に会う機会を作り、チャンスを呼び込みたいし、夢が実現するように自分の技術も高めなくてはなりません。
実はいま、香港で働く日本人のために、広東語の本を出そうと思っています。料理用語が分からなくて、調理場で苦労が絶えなかった私のようにならないよう、調理場の辞書というものを少しずつ書き溜めているんです。若い料理人の大きな手助けとなる本になるよう、一生懸命作っています。  (終)

アドバイスを受けず、自分のやり方で作りきった「上湯スープ」でグランプリ獲得。

香港で習った家庭料理『老少平安 豆腐と卵の合わせ蒸』

香港で働いているとき、先輩に「お前、『老少平安(ラオ・シャオ・ピン・アン』という料理知っているか?」と聞かれ、知りませんと答えたら、こう作るんだよ、ってすぐに教えてもらって憶えた思い出の料理が『老少平安 豆腐と卵の合わせ蒸』なんです。ふわふわと柔らかい料理なので、老人でも子供でも食べやすい=老少平安 という名前がついたそうですが、このネーミングも素敵だなあと思います。『RED U-35』の第1次審査テーマ、「日本米の料理」でも、『老少平安』と言う名前で、子供からお年寄りまで気に入ってもらえるような、干し海老と卵白のスープチャーハンでエントリーしました。
本来は海老のすり身で作るものなんですが、ご家庭で作りやすいように、このレシピではハムを使っています。ふわふわの柔らかな食感もおいしさのうち、といえる料理なので、豆腐と卵をしっかり混ぜ合わせ、滑らかになったら蒸してください。

老少平安 豆腐と卵の合わせ蒸し

老少平安 豆腐と卵の合わせ蒸し

コツ・ポイント

絹ごし豆腐の水切りをしっかりする。豆腐と調味料、卵を混ぜ合わせ、滑らかな液状になるまでしっかりとかくはんして混ぜる。混ぜ方が不足していると、食感が良くなりません。

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