ピックアップシェフ

メフメット ディキメン BURGAZ ADA (ブルガズ アダ) トルコ宮廷料理の奥深い魅力を、たくさんの人に知ってほしい。

運命の出会いによって、日本でトルコ料理レストランを開店。

幼い頃から母の料理を手伝い、サラダやパン作りを任されていた。

トルコから日本にやってきたのは1997年ですから、来年で20年になります。イスタンブールで生まれ育った私が、なぜ東京でトルコ料理のレストランのシェフをやっているのか、いまだに自分でも不思議に感じるところありますけど、運命がそうさせた、としか言いようがないんですよね(笑)。
東京でいえば、麻布十番や銀座のような、大都市イスタンブールの中心部で育ちました。私が生まれた当時のイスタンブールの人口は約100万人でしたけど、現在は1400万人までに増えました。子供の頃はまだ自然がたっぷり残っていた故郷が、コンクリートばかりの大都市になってしまいました。毎年、帰国するたびに昔の街の面影を思い出すと、ちょっとセンチメンタルな気分になってしまいます。私の子供の頃は、庭になっているリンゴや花梨の実をもいでおやつにできるような、緑あふれる美しい街でしたからね。
私の父は彫刻家で、自分で作品を作るほか、美術館の作品の修復なども行っていました。母は銀行に勤務し、結婚後は家庭に入りました。また祖父は、外国航路の船長として長く海外を行き来していた人でした。祖父は何度か日本にも行っていたので、お土産に買ってきてくれた日本人形や絵が家に飾られていました。それらの祖父のお土産が、私と日本との初めての《出会い》だったと思います。
ありがたいことに恵まれた家庭の一人っ子だった私は、何不自由なく育ちました。食事の支度をする母の横で、いつのまにか料理の手伝いをするようになり、芋の皮をむいたり、野菜をちぎってサラダを作ったりしていました。7、8歳からサラダは私の担当でしたし、パンも焼いていました。中学生になった頃、家族でよく食事に行っていたレストランの主人に「働いてみるか」、と言われ夏休みにひと月ほどアルバイトに行ったこともあります。トルコの学校の夏休みは3カ月ぐらいと長いので、そのうち三分の一の期間をアルバイトにあて、お金ももらいました。毎日まかないで、好きなメニューを作ってもらえるのが嬉しかった(笑)。当時はお店からバイト代をもらっていたと思ったのですが、だいぶ後になってから、父がこっそり店にお金を渡し、それを給料として受け取っていたことを知りました。父としては働いてお金をもらうことの大切さを学んでほしい、という気持ちがあったようです。その事実を知ったときは驚きましたが、父の気持ちが嬉しかったですね。とはいえ、まだその頃は料理の道に進むとは全く考えず、父のように芸術の道に進むか、大学に進んでビジネマンになるだろうと思っていました。

幼い頃から母の料理を手伝い、サラダやパン作りを任されていた。

皿の上に≪料理≫という芸術を作りたい、と反対する両親を説得。

大学では経済学を専攻しましたが、あまり興味が持てなかったですね。夏休みを利用してホテルのレストランで働いたり、ドイツに滞在し『ゲーテ・インスティチュート』でドイツ語を学びながら、ベルリンのレストランでアルバイトもしました。5歳からドイツ語を習っていたので、英語よりドイツ語の方が堪能でしたし、ドイツではホームレスの方々に無償で食事を配る団体に所属し、料理を作ったりもしていたので、ますます料理の仕事が好きになっていました。大学卒業後、両親に「料理の道に進みたい」と打ち明けたときは、予想通り反対されましたが、「お父さんが彫刻と言う芸術を作るように、自分は皿の上に芸術を作りたい」と説得し、許してもらいました。
最初に就職したのはイスタンブールのホテルでした。そこで私の師匠となったシェフは、オスマン帝国時代の宮廷料理の権威。すぐさま私は、彼の料理の知識と技術に魅せられてしまったんです。とはいえ、ホテルで出しているのは、普通のトルコ料理。宮廷料理とは、全く違う現代の料理なので、仕事が終わった後にシェフをつかまえ、熱心に宮廷料理について教えを乞いました。当時の私はとにかく宮廷料理について知りたくて、知りたくて。その情報について飢えていましたね。まぁ今もハングリーさは変わらないのですが、毎日シェフに質問攻めでした(笑)。その熱心さが認められて、厨房ではどんどん出世しました。その後はトルコ国内だけでなく、オランダやフランスのホテルやビストロでも働きました。いま思い出しても貪欲に学んでいたと思います。いろいろな国の料理を出来るだけ吸収し、頭の中で良いものをふるいにかけ、そこから私のオリジナル料理を生み出したいという一心でした。 
30歳の頃トルコに戻り、イスタンブールのレストランでいよいよシェフになります。そこで出会ったのが日本から観光で来ていた妻でした。

皿の上に≪料理≫という芸術を作りたい、と反対する両親を説得。

観光で訪れた日本で思いがけなく結婚することになり、長野県へ移住。

私がシェフを任されていたレストランは、日本からいらっしゃる観光客も多い、人気の店でした。そこで彼女と出会い、友人となったのですが、「日本に遊びに来てください」というお誘いをもらい、いい機会なのでひと月仕事を休んで、日本に行ったんです。それからの話は、ちょっと照れてしまいますが(笑)、ひと月の予定が三カ月になり・・・結婚することになったんです。トルコでの仕事を辞め、妻の地元の長野県・飯田市に移住したのが1997年でした。日本で仕事をするといっても、私は料理しかできないので、飯田市にトルコ料理のレストラン『ブルガズ アダ』をオープンし、オーナーシェフになりました。33歳の時です。『ブルガズ アダ』はイスタンブール近郊の「ブルガズ島」にちなんで名付けました。私が幼少時代、休暇でよく訪れた思い出の場所です。
飯田市は田舎町で人口も少ないけど、おいしいものを作れば、絶対に遠くからもお客様が来てくれると思っていました。当時の長野県にはトルコ人は私一人だけ。地元の方々もトルコについてほとんど知らなかったですね。トルコは砂漠ですか?とか、電気は通っているの?とか。無邪気な質問をよくされたものです。かわいいでしょう(笑)。もちろんトルコの料理なんて誰も知りません。だから余計に「トルコ料理をもっと日本人に知ってもらいたい」というモチベーションが高まり、毎日おいしいトルコ料理を一生懸命提供していました。そうするとおいしい!珍しい!という評判が広まり、嬉しいことにたくさん人が来てくれる店になりました。ホント、飯田の人は天使みたいな方ばかりなんですよ。その天使たちのおかげで、未知の国日本で、トルコ料理のレストランを成功させることができたと思っています。飯田市の市長さんから市民の方まで、たくさんの方が来てくれるようなり、ますます評判になり、近隣の県だけでなく、東京からわざわざ『ブルガズ アダ』まで来てくださる方も増えていきました。既に飯田市で10年営業していたので、次は東京で勝負してみたい、いよいよオスマン帝国の宮廷料理で、料理人として勝負したいと思うようになっていきました。(後編に続く)

観光で訪れた日本で思いがけなく結婚することになり、長野県へ移住。

ドクターが考えたエイジングケア料理『ムタンジャナ(お肉とアーモンド、干し杏でエイジングケア)』

今回お教えするのは肉料理『ムタンジャナ』です。14世紀に書かれた宮廷料理の本に載っている伝統の料理ですが、面白いのは宮廷ドクターによって考えられた料理ということですね。当時のスルタン(王族)たちは、毎晩のように美食の祝宴を繰り広げ、おいしいものばかり食べていたせいで、贅沢病というか、内臓の病気にかかる人も少なくなかったのです。どうしても肉料理は胃に負担がかかりますが、ナッツやドライフルーツと組み合わせることで体のエナジーを上げ、胃にも優しい料理になり、エイジングケアの効果もあると言われています。このムタンジャナは、店ではお出していない料理でしたが、スタッフからも好評で、店で提供したいという意見が出ているので、近々メニューに加わるかもしれません。
今日は仔牛のフィレ肉を使いましたが、材料は鶏肉、牛肉、マトンや豚肉でもおいしく作れます。それと宮廷料理では調味料は全て自然のものを使いますので、砂糖ではなくはちみつを使うことをお勧めします。

ムタンジャナ(お肉とアーモンド、干し杏でエイジングケア)

ムタンジャナ(お肉とアーモンド、干し杏でエイジングケア)

コツ・ポイント

14世紀の本に書かれた宮廷の伝統料理。宮廷ドクターによって考案された身体にやさしい料理です。 アーモンドは、80~90度のお湯に10分ぐらい浸してから氷水にさらすと簡単に薄皮がむけます。 味見は必ず最後に行うこと。煮あがったら味をみて、塩コショウで味を調えます。

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  • 文:北條尚子
  • 写真:キッチンミノル