ピックアップシェフ

マリオ フリットリ Mario i Sentieri (マリオ・イ・センティエリ) 故郷トスカーナの味とともに僕らしいエンターテインメントを加えた料理を。

イタリア料理を通して、たくさんの人々と繋がっている幸せを感じている。

調理専門学校の教授に転職し、生徒として各国の料理を学ぶ。

日本に来てから今年で25年になりました。
大阪の大丸の総料理長として日本でのキャリアをスタートし、本物のイタリア料理の魅力を家庭のレベルにまで普及できたことは、いまも僕の大きな自信になっているし、料理人としての個性や感覚を異国の地で認めてもらったことは、幸せなことでした。その能力をかわれて、辻調理師専門学校の教授に迎えられたのも、僕にとっては人生の大きな転機だったと思います。とはいえ、当時はまだ23歳でしたからからね。若いイタリア人が、「ハーイ、みなさん元気ですか~」と、授業を始めるのですから、生徒さんは面食らったかもしれませんね。でも、イタリアにいたころ、師匠のアンジェロ・パラクッキ氏が料理レッスンをするときに、アシスタントで手伝っていた経験があったので、教え方は上手だったと思います。
毎日9時から5時まで学校にいるのですが、授業が無い時間は体があくでしょ、まわりを見渡すとフランス料理、中国料理、日本料理とたくさんの先生たちがいるわけ。おお、これはチャンスだと思って、生徒になって各国の料理を勉強しました。ここで学んだことが、僕の料理人としてのベースをさらに厚くしてくれたと思っています。
教授を辞めた後、一度見てみたかったアメリカに渡り、カリフォルニアのサンタモニカにあったレストラン『イル・フォルノ』でシェフとして働きました。この店も大繁盛したんです。隣に伝統的なイタリア料理のオステリアがあったんだけど、僕の店はイタリアン、アメリカンにユダヤ料理もあるサンタモニカっぽいスタイルが人気で、毎日たくさんの人が訪れる人気レストランでした。しかし2年ほど働いたのち、レストランチェーンの副社長として再び日本に戻ることになりました。もうそれはそれは猛烈に働いたよ。料理長としてだけでなく、数年で28軒のレストランを新規オープンさせ、すべてプロデュースしました。とくに当時まだ何もなかったお台場に作ったカジュアルなイタリアンの店は、お台場にたくさんの人を呼ぶきっかけになった話題の店でした。

調理専門学校の教授に転職し、生徒として各国の料理を学ぶ。

震災後も店を休まなかった。ここが僕のベースだから閉めるわけにはいかない。

2002年、僕は会社を辞めて独立し、新たなパートナーと自分の店『リストランテ・ルクソール白金台』をオープンしました。厨房設備だけで5千万円かけ、機材にもデザインにも当時の僕がやりたかったことを全て注ぎ込んだレストラン。連日満席が続き、予約が取れない店としても有名だったし、売り上げも驚くほどの成功を収めました。
しかし芸術的なエレガンスを追及するような、いわばファーストクラスのレストランをやっていると、いつしか全くコンセプトの異なるエコノミークラスのカジュアルな店をやりたいという気持ちが芽生えるものなのでしょうか。6年間『ルクソール』でシェフを務めた後、次に僕がやりたいと思ったのがトラットリアでした。それを形にしようと思ったのが現在の店『マリオ・イ・センティエリ』です。
テーブルクロスもなく、取り皿も一枚だけ。でもディナー5000円で満足でき、みんながハッピーになれるレストラン、それがここ。『ルクソール』時代のお客さんもたくさん来てくれたけど、みんな驚いていた。「マリオ、何これ!?合わないよ~」ってね。僕は「聞こえないよー」って返していたけどね(笑)。でも、常連のお客様から「きちんとお金を出すからマリオらしい、『ルクソール』のような一流料理を食べたい」と言う声が多くて、結局トラットリアだったのは数ヶ月。すぐファーストクラスの店に戻しました。
震災のときも他の店が軒並み休業したり、知り合いの外国人シェフがどんどん帰国したりするなか、毎日店を開けていました。誰も来なかったけどね。だって『マリオ・イ・センティエリ』は僕のベースだからね、閉めるわけにはいかない。そうやって6年間いい形で続けてきました。そろそろこのスタイルにも慣れてきてしまったので、改めてもう少しカジュアルな方向にリニューアルしたいなぁと考えています。
情熱を感じる、そんな店にしたい。はっきり言って今の東京はあまり元気がないでしょ。海外から日本に戻ると、他の国に比べてエネルギーが低いと感じてしまうんです。東京オリンピックまでまだ6年もあるし、どうやってこの街をアクティブにしていけばいいのか、食の面から僕ができることがないか、毎日真剣に考えています。

震災後も店を休まなかった。ここが僕のベースだから閉めるわけにはいかない。

料理の技術だけでなくエンターテイメント性をみんなと共有したい。

14歳からスタートした料理人としての自分を見つめてみると、おいしい料理をつくり、提供する技術を持つことだけでは満足できない性分なんだなあ、と感じます。よく言うのは、エンターテイナーであること、つまり僕の情熱や経験を店のスタッフやお客様といいコミュニケーションを通して共有したい、そんな思いが人一倍強い料理人だと思っています。
そんな性格ゆえ、テレビ番組や料理のイベント、雑誌、本の出版、食品メーカーさんとのコラボレーションなど、お手伝いできることはなんでも積極的に参加しています。正直言って体力的には疲れますね(笑)。地方のイベントに行く機会も多いし、たくさんの人と会うし、生放送にも出ます。
NHKの『あさイチ』に出演しているおかげで、どこへ行っても「マリオ!マリオ!」と言われるのはすごく嬉しい。たまに病院に行ったりすると、「マリオ、大丈夫ですか」と知らない人に心配されたりね(笑)。料理を通して、たくさんの人々と繋がっている幸せは、これからも大事にしていきたいと思っています。
パーソナルライフでは日本人の妻と結婚し、17歳の娘がいます。娘が生まれた年に、東京に家も建てました。家ではあまり料理をしませんが、妻がいないときに娘にステーキとサラダ、パスタを作ってあげて一緒に食べることもあります。モデルをやっている娘はすくすくと育ち、いま身長が173センチあるけど、181センチの僕よりも脚が長いの(笑)。アメイジングでしょう。
今後も店を続けながら、イタリア料理のコンサルタントとして店をやりたい人や、飲食にかかわる人たちの手助けをずっと続けていきたいですね。遠い将来の夢は料理のレッスンをもっとたくさんしたい。誰も来ないような離れ島に店を作って、働きたいときは店を開け、休みたいときは自由に休み、あとは料理教室をやる、そんな生活がいつかできたら素晴らしいですね。 (終)

料理の技術だけでなくエンターテイメント性をみんなと共有したい。

生まれ故郷を思い出すトスカーナの魚のスープ『ズッパ・ディ・ペッシェ』

今回お教えする料理は、イタリア料理の前菜のひとつ、魚のスープ。たぶん最もシンプルで簡単なイタリア料理のひとつ。僕の故郷、トスカーナ州の港町、ヴィアレッジョは近海で水揚げされる海産物が豊富な土地。僕自身も魚をいっぱい食べて育ち、いまでも魚介類が大好きです。朝早くから漁に出ていた漁船が港へ戻ったところで採れたての魚やエビ、イカなどフレッシュなシーフードをいろいろ買ってきて、鍋にドンと入れて作る海辺の町ならではのスープ。赤ワインで煮込んだものは「カチェッコ」という料理で知られています。
材料にルールはないので、スズキなどの白身魚に、タコ、海老やイカ、アサリやムール貝など、お好みの魚介を組み合わせて作ってみてください。本当は魚の頭や骨、海老の殻などを煮込んで魚介だし(ブロード)をひいて作るとおいしいですが、簡単、早く、を重視したので、市販の魚介だしを使うレシピにしています。レシピではトマトを入れていますが、トマト抜きのビアンコスタイルでも、十分においしいスープになります。
日本はイタリア以上に活きのいいシーフードが豊富な国なので、魚料理が好きな僕にとって、まさに天国。料理することに幸せを感じる土地ですし、魚介類をうまく調理する伝統も、イタリアと日本の共通する部分だと感じています。できるだけ新鮮な魚介を使って、火を通しすぎず、シンプルに仕上げてください。

Zuppa di pesce ヴィアレッジョ風魚介のスープ

Zuppa di pesce ヴィアレッジョ風魚介のスープ

コツ・ポイント

煮詰め過ぎると魚介類のフレッシュな味わいが台無しなので、手早く仕上げること。 海老や貝類を殻つきで使ったほうが、魚介のうまみたっぷりに仕上がります。

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